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◆ 資本主義と金融市場の多様化
◆ 資本主義の多様性
ほんの数年前まで、金融市場といえば、米国と欧州、そして日本の三極市場のことを指していた。Emerging市場は、数年に一度のサイクルで米国市場に影響されて乱高下する、付随的な存在でしかなかった。だが近年、中国やロシア、ブラジルなどが経済成長を急速に高め、「眠れる大国」からの脱皮を図りつつ、世界経済や金融市場への影響度を強めてきた。
これは歴史的な金融構造の転換点として捉えてよいだろう。日本でもそうした認知は深まっている。中国株のネット取引が増え、インド投信が売れる時代である。もっとも、国際化を指向する個人投資家が増えているのに比べて、金融機関経営戦略においては国内回帰が進むという逆転現象がおきているのが、現在の日本の特徴である。
こうした経済体制や市場の多様化は、各国の資本主義や市場システムの多様性への問題意識を否が応でもかきたてる。欧米日だけの世界観においては、何故経済大国日本の金融市場は欧米金融市場に近づけないのか、という疑問が付きまとったものであるが、多様な国が多用な経済発展形態を見せる中で、市場システム設計の多様性も認識されてきた。今や、日本特殊論を説くのは日本のドメスティック派ではないかとの逆説的な見方や、むしろ米国経済体制を特殊な世界と見る世界観だってある。
資本主義形態に関して言えば、米国の圧倒的な株主資本主義が世界経済を牽引し続けていることを背景に、Global Standardとして米国式資本主義が礼賛されてきた。昨今の企業買収を巡る日本国内の諸現象の中でも、こうした議論が主導権を握りつつある。株式会社が経営者や従業員のものでなく、株主のものであるのは自明であろう。その意味では日本の資本主義も米国型に近づきつつあると見てよい。
だが一方で、企業は株主のものという教義が、資本主義の維持・発展のための絶対的テーゼだといわんばかりの主張に閉口する人もいよう。また、株式会社とはいっても大多数を占める非上場企業や中小企業においては、株主と経営者、従業員が混在しているのが常であり、そうした経済社会を株主だけの視点で解釈することに疑問を持つ人もいよう。
いくら新古典派経済学が主流になったといっても、資本主義が多様性をもつことが否定された訳ではない。金融市場は、資本主義の生命力を支える唯一の構成要素であるとも言えない。株主が資本主義社会において絶対的支配力を持つ唯一の主体であるとは限らない。
マルクスは資本主義の終焉を予想して、大きく相場観を外したが、その思考過程がすべて間違っていたとは言えない。どんなに優れたトレーダーでも間違えることもあるし、どんなに下手なトレーダーでもたまに秀逸な閃きを見せることもある。一つの結果で、すべてを判断すべきではない。資本主義の終焉は到来する気配はないが、資本主義の多様性は現実に起きているのである。それは、資本主義の下での金融や市場システムの多様化をも許すことの証左なのだろうか。
◆ レギュラシオンの立場
「資本主義対資本主義」と邦訳されたボアイエ教授の近著が藤原書店から出版されている。題名から明らかな通り、資本主義の多様性について書かれた、レギュラシオン学派の大家の著作であるが、ボアイエ教授は本書の中で、資本主義が一つの形式に収斂するといった見方や、現代の金融化が資本主義の内実を崩壊させようとしているといった批判を、資本主義の多様性は理論的に示すことができると主張しつつ、ともに撃破している。
資本主義の統一理論とでもいうべき、米国型市場資本主義への傾斜思考は根強いものがある。筆者も含め金融市場で働いた経験のある人々の多くは、程度の差こそあれ、その仕事を通じてそうした考え方を身に付けてきたのではないか。その是非はひとまず置いて、教授の論に少し耳を傾けてみよう。
1990年代を特徴付けていたのは、グローバリゼーションは諸国間や諸経済システムの競争を激化させ、アングロサクソン流の金融経済が最も効率的なシステムとしてその競争に勝利し、各国はアメリカ型の制度を採用すべきだとする三段論法であった。これは現在の日本にもあてはまる風潮である。
この論法でいけば、アジア危機などは、近代化へのアクセスのために支払うコストである、といった考え方が演繹されていく。これに異を唱えたのが、金融経済の真只中にいた筈のジョージ・ソロスやワシントン・コンセンサスを批判し続けるジョセフ・スティグリッツ教授たちである。彼等は、経済システムという舞台の主役たちが、そのシステムを不安定化させ、その正当性を失わせるような戦略を展開しているとして、過剰な金融化、或いは金融の過剰な影響力を告発している。
ソロスの言に関して言えば、その身勝手な論理展開に注文をつけたい気もするが、ボアイエ教授は敢えてそこにはメスを入れず、むしろ混乱する資本主義に固有の不均衡や矛盾を必死に分析する彼らの姿を冷ややかに観察している。「マルクスなきマルクス主義を形成しているかのよう」だという皮肉は辛辣であるが、核心を突く批評でもある。
レギュラシオンは、一般均衡論に依拠する主流経済学に対峙するものであるが、かといって資本主義の終焉を期待するマルクス経済学と立場を共にする学派ではない。「調整」を語源とするその思考方法は、ややもすれば中途半端で理論的でなく、主流経済学を乗り越えるエネルギーはないと批判されることも多い。
ここでレギュラシオンをくどくど説明するつもりもない。筆者にその能力もない。ただ、ボアイエ教授が同書で指摘する資本主義の多様性を参考に、金融市場にも多様性という論理は成り立つのかを考えてみることにしたい。
◆ 多様性の具体性
第二次大戦後、二つの経済体制が並存した時代には、資本主義と共産主義の中間的な経済体制も有り得るという考え方もあった。それは絵空事に終わり、さらに冷戦の終焉は、資本主義がある一方向に収斂するとの見方をもたらす。1990年代に、米国と欧州・日本の経済成長格差が拡大したことが、その論法にさらに力を与えたと言えるだろう。
だが21世紀の今日、新古典派の教科書にあるような資本主義像のほかに、現実世界には多種多様な経済体制が存在している。ボアイエ教授は同書の中で「企業の意思決定を支配する合理性の型」を判断基準に取るならば、日本とドイツに見られる同盟資本主義、韓国とフランスに共通の国家統制資本主義、そして台湾とイタリアに共通する同族資本主義といった分類が可能であるとの研究を紹介している。
こうしたカテゴリーを見れば、欧州の資本主義とアジアの資本主義、といった区分があまり意味のないものに思えてくる。アジアをCrony Capitalismと呼んで批判する人も多いが、それに似た形態が欧州にまったくないとは言えない。他にも区分基準はいくらでもあろうが、それらは資本主義の中で、形態の競争が始まったことを示すものだ。
例えばレギュラシオン学派は、米国型の資本主義を、「市場」の機能に特徴付けられると見て「金融市場資本主義」と特定化したが、それは米国だけでなく、カナダ、英国、豪州、ニュージーランドといったアングロサクソン諸国に共通したものだと分析する。そうした地域では、金融市場の重要性のほかに、不平等の幅の大きさ、雇用労働比率の高さ、労働市場の柔軟性、イノベーション・スタイルなどに類似性が見られるという。
だがOECD諸国には「市場重視」の資本主義という範疇に入らぬ国が多い。日本や韓国のように大企業が内的なFlexibilityを持つ企業構造は、協調組合主義 (Corporatism) に近く、ドイツやフランスなど欧州大陸諸国は国家が決定的な役割を果たす特異な資本主義であり、北欧諸国はまたこれとは一線を画す開放的な資本主義モデルである。そうした中で米国をあらためて振り返ると、米国が極めて特殊な資本主義体制であると映る。その特殊性が現在の高成長を支えているからといって、資本主義がその特殊性に収斂すべきだという証明にはならない。
むしろ、米国型の資本主義の優位性が浮き彫りになった背景として、政治的要因抜きにその展開を語れない。規制緩和、競争への開放性、金融革新の促進などの重要な諸戦略は、米国の保守系政府によって推進されたとボアイエ教授は述べている。また金融によって支配される経済モデルは、経済的効率のゆえに普及するのではなく、規範的権力によって普及することを見落としてはならないという。
例えば、日本が経済的に低迷しているのは、その経済体制が理想的な市場資本主義とかけ離れているからではなく、「権力の座にある政治同盟が、蓄積過程の回復を縛っている根本的不確実性を取り除くような妥協を形成することができない」からだと指摘している。これは、金融市場に携わる人々にとっても辛いコメントだろう。いくら理想的な市場機能を論じても、政治の前には無力感を抱かざるを得ないからだ。
◆ さて、金融市場主義は何処へ
ボアイエ教授は本書の締めくくりに、資本主義の将来像をいくつかの視座から述べているが、抽象的で解りにくい箇所が多いためここでは論評を避ける。基本的には市場は万能でなく、円滑な機能を導出する為に国家介入を必要とし、その過程で様々な資本市場の形態が生み出されるという理論的枠組みを築こうとしているようだ。
そうした理論付けの内容はともかく、金融市場が資本主義を先導する米国式経済体制は、資本主義の究極の姿なのか、日本が目指すべき理想像なのかと問われれば、いくら米国型の金融市場を規範に仕事をしてきた身でも、やや躊躇せざるを得ない。米国には、長所と短所とが見えすぎて、すべてをコピーしたくなるような魅力に欠ける。株主と市場がすべてに超越するという「米国式金融哲学」は、社会が資本主義と向き合ってきた歴史観を忘れているように思える。
金融市場は、資本主義の生命力を構成する一要素である。従って、その多様性が資本主義の多様性をもたらすこともあろうし、多様な資本主義が多様な金融市場を要求するということもあるかもしれない。資本市場に絶対モデルが無いように、金融市場にも収斂すべき型はないことを、バブル後の日本は再出発の点とすべきだろう。
日本の金融市場は、日本の資本主義の方向性や将来像と無縁ではあり得ず、米国流市場構造の取捨選択を行う判断基準たる価値観を早急に構築すべき時期に来ているが、肝心の資本主義のモデルが揺らいでいる。我々はどんな社会を望んでいるのか。豊かになりすぎて、リスクテイクどころか、資本主義社会の理想像まで喪失してしまったのだろうか。
金融市場が単独でその理想像を追うことは可能だが、そのケーススタディは金融スキャンダルが次々に明るみに出た米国型経済に見ることが出来よう。4%の経済成長の裏には、腐敗と隣り合わせの金融市場構造がある。それが日本の求める姿でないことは間違いなかろう。
金融が語れることも限られている。だがいま、金融がその市場構造改革を通じて、ビジネスを含めた社会のコストとリターンを明確に客観的に数値化することは出来る。そこから日本の資本市場の針路を帰納することは、決して不可能ではないような気もする。