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◆ 「新しい市場社会の構想」と現実の市場社会

◆ 市場主義と市場社会

よく言われる「市場主義」と対比されるのは、社会主義における計画経済や福祉主義に基づく厚生経済などの概念であろう。だが20世紀の後半には、ソ連の崩壊や中国の市場原理導入によって、後者のようなイデオロギー的に理想化された社会像を求める体制は存続し得ないことが明らかとなった。そして市場主義は先鋭化する。その典型が米国であり、それを世界標準と見做して、構造改革の御旗のもと伝統的な日本社会を破壊したというのが反市場主義派の批判である。

その見方は、ちょうど銀行の不良債権処理の時期にも重なって、処理を積極化させる行政への批判にも結びついた。処理の加速化が企業倒産を呼び、社会不安を引き起こしたというものだ。そこでセーフティネット議論も活発化した。だが、それは何のための安全網なのか、つまり個人へのセーフティネットなのか、それとも企業が対象なのか、或いは社会全体に対するものか、という視点を欠いたまま、凡庸な政策が投入されて混乱と損失を招いたのはまだ記憶に新しい。

こうして「市場主義」と「市場社会」の意味が混同されたまま、対米追随の姿勢が批判され、市場を重視する価値観が、メディアを含む社会の多くの視点から攻撃された。だが市場主義と市場社会主義は異なるものだ、というのが「新しい市場社会の構想」(佐伯啓思・松原隆一郎編著:新世社)に貫かれる論旨である。本書では、「市場主義」への批判的立場を取りつつも、「市場社会」とは決して市場競争経済やグローバル市場によって覆われるものではないと説きながら、その「市場社会」を支持する立場を取る。「市場社会」という市場と社会という二つの概念が結合した重層体としての視点に基づいて、「市場主義」の影響を批判的に論じるものである。

出版時期は2002年、それは金融危機が末期的症状を迎えていた時期でもある。当時の危機感に満ちた社会情勢を行間に漂わせながら、伝統的社会に対して厳しい結果を強要しかねない「構造改革論」への過剰な警戒感が滲み出ている部分もある。小康状態を迎えつつある現在から見れば、その市場主義批判に多少の違和感を抱かざるを得ない部分もある。

だがその批判の向こうに、新しい市場社会モデルを見出そうという姿勢は至って明確である。佐伯・松原両教授を含め計7名の経済学者・社会学者による論文集の中から、市場主義・グローバル主義を、従来のマルクス主義やリベラル的社会民主主義のような立場とはやや異なる視点で、批判的な論陣を張る佐伯氏の論に、まず焦点を当ててみよう。

◆ 資本主義の文化的矛盾

佐伯氏は、論壇誌などを通じて、グローバリズムや金融市場、株主資本主義などの言葉に代表されるキャピタリズム、中でも米国をモデルとする市場主義の増幅に一貫して批判的な立場を取り続けてきた。本書では、その一つの視点として、「資本主義の文化的矛盾」という座標軸を設定する。それはマルクスが資本主義の矛盾を経済的下部構造においた方法になぞらえて言えば、「その批判の視座を文化的領域に置いた」ということが出来る。

佐伯氏の議論は、資本主義に対峙してきた社会主義が崩壊した今、資本主義を批判的に見る観点をどこに見出すべきかを議論の出発点とする。リベラルや社会民主主義も一つの対立軸では有り得るが、それは市場経済の高度な展開を容認した上でのセーフティネット論になりがちで、問題設定としての核心を外していると考える。

佐伯氏の視点はこうだ。社会を政治と経済・技術、及び文化の三領域の複合と見なせば、資本主義は経済・技術の領域だけでなく、社会的側面を併せ持つと考えられる。その文化とは、「人々がアイデンティティを確保する価値の体系」と定義される。その領域で、人々は欲望や目的を設定することになる。

とすれば、資本主義の安定性は「経済・技術の領域」と「文化の領域」の調整可能性に依存することになるが、両者の間には法則や作用、リズムに関する大きなギャップがある。前者では合理的利潤計算やコスト分析が可能となり、模倣は容易で地理的な制約は薄れる。一方で後者は、それ自体の歴史的で場所的な制約の中に置かれる。経済発展は、文化を変容しようとするが、文化はこれを反撃する。そこに資本主義の矛盾が浮かび上がる。

この議論によれば、現代社会の最大の問題は、自由市場が一方では富を創造するシステムとして、もう一方では伝統的制度や文化の破壊者として、矛盾を引き起こしている点にあると要約される。ここでいう「文化」が、資本主義追求を可能ならしめる「信念体系」を醸成するものであることは、マックスウェーバーを思い起こせば十分だろう。

佐伯氏は、「グローバルな市場経済」という想定は、市場を社会構造や文化から切り離して理解できるという立場を取っていると批判する。本来、市場経済とは社会や文化との間で境界相互交換を行う、相互依存のシステムである筈だ。その意味では、現在の米国型市場経済には、米国という独特の社会と文化が持つ価値が投影されているに過ぎない、と同氏は見る。それは「米国流市場主義」への批判に他ならない。

◆ グローバルな市場経済と文化的確信の喪失

さてその「グローバルな市場経済」なる言葉は、現代経済社会を語る際に欠かせない表現である。これは4-5年前あたりから盛んに使われるようになった一種の流行語であり金融関係者には、突然降って沸いたような「グローバル化」という形容に戸惑いを感じる人も多かろう。

経済は交易が始まった時代から、金融も金銀の時代からそもそもグローバルである。敢えてその規模を問うとしても、15世紀以降の大航海時代は立派なグローバル経済であり、18世紀以降のポンド覇権の確立は、金融のグローバル化の成立とほぼ同義であろう。20世紀後半にいきなりグローバル化が登場した訳では決してない。

だが金融に限定せず世界経済を見渡せば、世界的な資本流動性の高まりだけでなく、直接投資に伴う技術移転、世界的視野でのマーケティングや生産計画、といった側面において1980-1990年代に「グローバル化」が台頭したと見ることは出来る。また社会学者がよく言うように、「ヒト・モノ・情報の観点で世界が縮小した」ことを以ってグローバル化と呼ぶことも出来る。

佐伯氏もそうした定義に従って、現代のグローバル化が過去のグローバル化と違うのは、市場経済のもつ技術・情報・金融における「標準化と平準化の運動」が同時に文化や社会構造に対して画一化と混乱と相互作用をもたらすことだ、と述べる。だがグローバル化は一方的に文化を画一化するのではなく、社会のアイデンティフィケーションの再確認をも要求する。つまり「衝突」が発生する。

ライブドア事件で世論が二分したように、グローバリズムがもたらす市場経済システムは、文化の領域での価値観の二極化をもたらす。例えば、個人主義とコミュニティ、変化への欲求と不変への要求、などである。佐伯氏は、その対立自体が問題なのではなく、その価値観のはざまで我々が「文化的確信」を喪失することが深刻なのだ、と主張する。

我々の時代が、伝統的なものへの関心が薄れる一方で、新たな価値に対する確かな意味を持ち得ない、という危機に晒されているのは間違いないだろう。現代の市場経済が、こうした社会的な揺らぎを誘導しているのではないか、という佐伯氏の推論は傾聴に値しよう。この文化的確信の喪失が社会的信頼の喪失を呼び、生産や投資を縮小させ、消費を減退させるとなれば、問題である。現在の日本経済が、このリスクに直面して停滞している可能性は否定しえない。

佐伯氏の議論を敢えて筆者流に拡大すれば、現代における文化的確信の薄れと衰えが、日本における資本主義の次の姿を模索するためのエネルギーを枯渇させている、と言うことも出来るかもしれない。

◆ 金融市場の市場主義

さて金融市場へ戻ってみよう。金融は、現代資本主義を司る、極めて市場主義的な主張をもつ機能である。その機能の導入は、佐伯氏が主張するような「文化的な影響」を市場社会に与え、日本の伝統を蔑ろにするような現象を引き起こすことになるのだろうか。

金融の本質とは、資源の効率的配分である。その達成が、経済の効率や生産性を高めて生活水準の向上をもたらす。その為に、市場価格の透明性や価格の情報化を要求するのが金融に流れる市場主義である。そこには確かに破壊される文化があるが、それは非市場という既得権にしがみついた非効率の温床となる文化である。その文化を破壊することを資本主義の文化的矛盾と呼ぶのは適切ではない。

佐伯氏の議論は、その意味ではミスリーディングでもある。同氏の、金融を含めた市場経済の市場主義的グローバリズムに対して文化的矛盾を説く論理は、金融機能と経済社会との関係を抽象化して混乱させているからだ。金融とは、「民主的な経済文化」を求める力であり、投機的な流動性のような要素だけを取り出して語るべきものではない。一時期の例外的なヘッジファンドの如き暴力的イメージをちらつかせ、それが伝統社会、既存文化を崩壊させるという表層的な批判は、金融界への非建設的な挑戦でもある。

勿論、株主絶対主義を掲げてすべて株主は正しいと見做すような単純極まりない金融市場主義は、佐伯氏の指摘する通り、良い意味での伝統経済を破壊するであろう。だが、すべての金融取引をガラス張りにして、投機の意味を認め、価格の変動性や市場の揺らぎを受容し、市場機能の耐久性を理解して社会に市場主義を取り入れることは、文化を破壊するどころか、豊かな社会文化を獲得するためには、むしろ必須の行動原理なのではないかと思える。

ライブドア、村上ファンド、ソフトバンクインベストメント、といった新しいタイプの金融思考に対し、日本の文化を破壊するという論点だけでは、創造的金融は生まれないし、豊かな資本主義像が生まれることもないだろう。株主としての倫理感・能力・理念を語らずして、株主資本主義を語る無かれ、という視点も必要だ。金融には、まだ悪しき文化を破壊する期待感を込めて良い。だがその破壊には、資力だけでなく理性も必要だということを忘れてはなるまい。

2005年05月27日(第099号)