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◆ 対立するドイツと英米の金融資本主義
◆ ドイツ取引所のお家騒動
ドイツにおける英米ヘッジファンド批判は、一国の首相まで論争に巻き込む大事件となった。マレーシアのマハティール首相とジョージソロス氏の喧嘩の類ではない。先進国であり、西洋という一つの共通の歴史認識基盤を有する国の間で、金融のあり方をめぐる大論争が始まろうとしているのである。日本のメディアはあまり注目していないが、国際金融論的にはちょっと放っておけない事件である。
事の起こりは、ドイツ取引所 (Deutsche Bourse)が英国のロンドン取引所 (LSE)を買収しようとして、株主であるヘッジファンドから猛烈な批判を浴び、その結果として買収を断念させられただけでなく、経営者のクビも飛ばされた件である。更迭されたザイフェルトCEOは、同取引所の近代化を促進し、欧州最大の規模に持ち上げた功労者でもあった。またその会長は、ドイツ銀行会長のブロイヤー氏であるが、同氏もまた辞任を迫られている。
こうしたドイツ経営者の面子とドイツ流の経営を潰したとして、与党SPDのミュンテフェリング党首は、「ヘッジファンドは企業に群がるイナゴの群れだ」と述べて批判、さらにアイヒェル財務相も「短期売買ですぐに立ち去るような資本には規制が必要だと述べてヘッジファンドへの不快感を示した。さらにシュローダー首相までもその論調に同意し、ドイツ政府は欧州委員会に対してヘッジファンドの規制導入の検討を働きかけると述べた。報道に拠れば、来月のサミットで、シュローダー首相はヘッジファンド規制を提案する考えも抱いていると言われている。
そもそもLSEは、ドイツとフランスの間での争奪戦が激化していた。どちらが英国を取り込むかによって欧州の勢力図も変わる。ドイツ取引所は、大西洋の向こうで着々と進む米国内の取引所の再編を睨みつつ、欧州での覇権の確立にはLSE買収が必要と考えていた。だが大株主であったヘッジファンドのTCIには、これが愚鈍な戦略に見える。株主の利益にならないことは止めて、金庫にたまった現金で、自社株買いあるいは増配を行うように経営陣に迫る。
TCIは他の株主の同意も得てこの経営陣を追放し、計算どおり配当も増額させた。典型的な株主資本主義の徹底である。目先の利益が気になる株主には当然に見えるし、長期戦略を考えたい経営者にはカネに物を言わせただけの傲慢な圧力に映る。英米式金融主義とドイツ流資本主義の激突である。その対立の源流はどこにあるのだろうか。やはり民族的な問題があるのだろうか。
◆ ドイツ人、イギリス人、アメリカ人、日本人
ドイツ人とは、単純に言えばゲルマン民族である。一方、英国・米国人は単純化して言えばアングロ・サクソン民族である。両者の違いが、こうした金融・経済システムへの差異をもたらしたと言うのは簡単だが、良く考えるとそんな単純なものでもなさそうだ。
アングロ・サクソンとは、アングル人とサクソン人を合わせた名称で、前者はデンマークの国境近いドイツのアンゲルン地方の人々、そして後者はその少し南にいた人々である。歴史書に拠れば、その北ドイツの民族が449年にブリタニアへ侵入し、定着したらしい。1500年ほど前に、英国に移住したゲルマン民族の一部が、400年ほど前にアメリカ大陸へ移住し、現代に至る英米独という国際関係を形作っている、という訳である。
ある著名な歴史家は、なんだかんだ言っても結局その三国の先祖はドイツ人だ、と述べているほどだ。それなのに、明らかに現代金融への考え方においては、ドイツと英米の考え方の差は歴然としている。勿論、英米間でも微妙な距離感があるし、そんなに単純化できる話でもないのは自明である。そもそも米国は欧州から逃げ出した人々が作った国だ。
もっとも、英国と米国がそれぞれ海洋大国として独自の通貨政策と金融システム構築で国際金融覇権を確立させたのに対し、ドイツは金融を工業国構築のための形而下的存在にしか捉えなかったという比較も考えられるかもしれない。日本の金融がドイツに似ていると言われる所以でもある。
日本が明治維新以降、目指した洋学の素はドイツである。帝国大学もドイツ流の輸入であり、国家モデルもプロイセンであった。ここ50年で日本の世界観も大きく変化したが、銀行制度など現代金融システム構築が始まったのはまさにその明治時代であり、そのドイツ的なDNAはまだ連綿と続いているのかもしれない。ドイツよりも隠れマルクス主義者がいまだに多いと言われる日本で、金融のドイツ的保守性が根強く残るのもやむを得ないのかもしれない、と思ったりもする。
だが、現代日本の金融社会においては、観念的ながらも英米流の金融の方向性に共感を持つ人が少なくない。実は、日本とアングロ・サクソンとの共通点の多さを主張する人もいる。歴史家の渡部昇一氏はその一人である。渡部氏は、宗教観や言語観、都市観などの点で、両者に共通点が少なくないと分析する。日本が、何らかのきっかけでアングロ・サクソン的な金融へ急速展開する可能性は否定出来ないような気もする。
閑話休題。なぜドイツは英米流金融に猛反発するのか、ドイツの資本主義と金融体制はどこへ行こうとしているのか。同じ工業国、輸出大国として類似点の多い日本にとって、ドイツの選択はどういうImplicationをもたらすのだろうか。
◆ ドイツの構造問題
輸出額は世界一を誇る工業大国のドイツは、何を悩んでいるか。一言で言えば、東西ドイツ統合の重荷を引き摺っているのであるが、その主な理由として挙げられるのは、社会民主的な資本主義への指向が統合成功を阻んでいるという解釈であろう。以下、英国のThe Economistによる「ドイツ病」の診断を見てみよう。
ドイツの経済環境は、EU拡大によって大きく変化しつつある。昨年5月の中欧10カ国のEU加盟で、労働コストなどの面でドイツは厳しい競争に立たされ、国内産業はコストカットや工場の他国シフトなどを強いられている。国家として、福祉を重んじる社会民主的な体制から、よりアングロ・サクソン的な資本主義への転換を迫られている。
だが、ドイツの政治家はまだそうした転換を歓迎していない。大企業において雇用削減や経費削減などで苦しみながら利益を上げる経営に対して、労働者と同じ目線で批判する。株主と経営者だけが利益を得て、労働者は切り捨てられている、という訳だ。
また改革が必要な中小民間企業に関しては、ドイツ国内資本が硬直的で殆ど役に立たない。銀行の不良債権処理も、企業再建も、結局アングロ・サクソン・マネーがドイツに進出して請け負っている。Private Equityにおいても上場株式市場においても、90年代のバブルで火傷したドイツ人投資家は手をこまねいたままだ。
企業家も、自社株買いを進めて設備投資を避ける傾向にある。政府は減税や起業奨励金などを通じて企業活動を刺激させようとしているが、国の政策など成果は知れている。2003年に企画されたAlternative Investmentや証券化ビジネスの奨励、またREIT市場の創設なども、全く途に着いていない状況である。国に出来ることはまだ沢山ある、と考えるのは政治家の妄想に過ぎない。
つまり、ドイツでは政治家だけでなく国内投資家も企業経営者も、その行動からは改革を支持していないように見受けられる。従って、海外資本特にアングロ・サクソン系の資本だけがドイツの改革を誘導すべく積極的に機能しているとも言える。
何だか上記の診断はドイツを日本と読み替えても文意が通じるような気もするが、同誌の見解に拠れば、ドイツ政治家の一連のヘッジファンド批判は、国民の目を意識した政治的な「外敵批判」とも解釈しうる。Hedge Fund、Private Equityといった「新金融機関」がドイツの旧式経済構造を変革しようとし、これにドイツ政府がナショナリストの受けを狙って「国益」を掲げて抵抗することによって社会民主的な国家像を再確認させ、国内政治の混乱を防いでいるという見方も出来よう。先日の選挙で実質的な敗退を喫した与党が、英米資本主義を槍玉に挙げて懸命に批判の矛先を海外に向けるという、何やら日本の隣国が採用している外交策に似たところも無いわけではない。
◆ ドイツの資本主義
もっとも、The Economistの捉え方も、やや一方的な印象も受ける。もしもドイツが本当に一丸となって保守的な経済システムを維持しようとしているならば、ドイツ取引所の買収戦略は説明しようがない。確かに、ザイフェルト氏やブロイヤー氏は、ドイツ保守派を代表とする旧世代の経営者かもしれないが、LSE買収戦略は本当に愚策であったかどうか、その分析無しにHedge Fundの判断が正しいとは言えない。
勿論、両氏が株主の存在を軽視して独自に買収戦略を進めようとした、という判断ミスはあったかもしれない。それは、株主資本主義の意味を軽んじたという謗りは免れ得ない。だが、それで以ってHedge Fundの判断が正しいということにはならない。
また旧式の経済モデルの疲弊とその修正の必要性が明らかであると認めたとしても、その処方箋がアングロ・サクソン流の資本主義なのだ、と言い切ることも出来ない。確かにここ数年、様々なファンドがドイツに流入して活躍している。その寄与度も大きい。だがそれを以ってドイツがその金融主義を受け容れるべきだという論理は、大凡の方向性は決して間違ってはいないと思うものの、必要な時間軸を考慮に入れればやや性急で強引な印象が拭えない。
日本の金融経済システムにも似たような議論が続いている。だが、日本は巨額の公的資金と中国特需によって、中途半端な改革で経済成長を取り戻してしまったため、改革論議もまた中途半端な形に止まっている。ただ、日本もドイツもアングロ・サクソン流金融を受け容れるかどうか迷っている途上にあるのは同じであろう。知性も品性もない株主原理主義の横暴が、その当惑に拍車をかけている。
前々回の小論においても、資本主義の多様性について考えてみた。資本主義体制のスタンダード性という概念には疑問が残るが、その効率的運用においてアングロ・サクソン流が一歩リードしていることも否定できない。EU内も、自由主義と構造改革の必要性を主張する英国グループと、社会民主主義を捨てられない独仏グループとの分裂の様相を呈してきた。
「同盟資本主義」とも称されるドイツや日本それぞれの経済社会においては、今後「株主をどう解釈するか」が主要な論点となっていくだろう。アングロ・サクソン流の金融に基づく企業経営像を敢えて単純化すると、社員よりも株主と格付け会社を重視するものだ。私の苦い経験で言えば、これほど不毛な労働環境は無い。ドイツも日本も、そして実は英米両国もそれが理想的な社会像ではないことは解っている。日本に蔓延る極端な株主「至上」主義を受け容れる必然性もない。だが市場性の意味を軽んじてはならない。
経済は人々に奉仕するものであり、その逆ではない。金融は、人々に奉仕する経済に即した姿であるべきなのである。ヘッジファンドの存在は悪ではない。だがヘッジファンドもまた、その特異な金融活動を通じて、人々に奉仕する役割を担っていることを忘れてはならない筈である。