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◆ 金融における科学の評価と技術の評価
◆ 科学と技術の違い
金融工学という言葉が世間に定着して久しい。だがその中身の正確な理解が、言葉の普及度と同じ程度に広まっているかどうかは疑わしい。もっとも、それは金融工学に限らないだろう。核技術に関してもナノテク技術にしても、先端技術と呼ばれる分野に関して我々の持っている知識など、専門家にしてみれば極めて偏ったものに違いないのである。
だいたい、技術と科学の区別がつかないのが東洋人だ、という話を聞かされたことがある。なぜ西洋人には区別がつくかと言えば、現代自然科学が発達したのは西洋であって、その科学を使った技術を科学とともに同時輸入してしまったのが東洋だから、というのがその理屈である。例えば、日本は明治維新以降、科学と技術が一度に流入してしまったため、その区別がつきにくいのだという説は何となく解るような気もする。
金融に関しても、こじつけて言えば金融を科学として捉える暇も無くDerivativesという技術を一挙に輸入してしまったのが日本なのかもしれない。では金融の科学とは何か。逆説的であるが、それは金融を社会学として歴史観乃至政治思想史の見地から科学的に理解することではないかと思う。経済物理的、統計的、金融工学的分析はむしろ技術的なアプローチに過ぎない。
科学と技術について考察した「科学論入門」(佐々木力:岩波新書)という極めて岩波新書らしい本がある。1996年初版なので少し古いが、その書に拠れば、科学は自然の法則性を探索する学問で、技術は科学を利用すると否とにかかわりなく一定の手順でものや仕組みを作る技法である、と定義される。両者は明らかに異なる概念であって、科学の無い時代にも技術は存在しえた訳である。つまり、技術は科学に基づくものと、そうでないものがあるということだ。
だが科学もまた技術から独立して生まれたものではない。著者の佐々木氏は、「テクノロジー科学」という言葉を使って、17世紀以降の科学革命から生まれた近世科学は、高級職人の社会的な活躍とそれを学習に取り込んだ学者の出会いがもたらしたものだ、という説を紹介している。事実、ガリレオもニュートンも、そしてファラデーもマックスウェルも実験の達人であった。
一方で、イスラムや東洋では科学を鼓舞する思想的基盤が消滅し、西洋のように近代科学を生むことが出来なかったという。それは、科学の発展と政治的背景との関係を示唆するものとも言える。科学は、政治的・社会的な支持を獲得できなければ、市民権を得ることは出来なかった筈だ、という指摘は新鮮だ。一般の科学史はそこを素通りしてきたように思える。日本の金融を「科学的に」考える上で、これは極めて重要な視点ではないか。
◆ 科学の政治史
日本では、その急速な近代化や高度成長という独自の経験をもとにして、近代科学はものづくりにおいて有用だったから近代社会に受容されたと考えがちである。そういう側面は多少あったにしても、17-18世紀のテクノロジー科学が当時の国家に受容されたのは、むしろイデオロギーとしての意味が強かったと佐々木氏は語っている。
当時の政治思想といえば君主論のマキャヴェリを忘れる訳にはいかない。その政治哲学と古典力学の機械論的世界観には類似性があった、というのである。政治哲学も自然哲学も、「HOW」という操作的・技術的問題がすべてであるからだ。時計仕掛けの方法論をもつ自然科学のアプローチは、デカルトに代表される「分析」、つまり技術的な操作である。それは、マキャヴェリの政治哲学が求める技術そのものであるという。
英国の王立協会も、フランスの王立科学アカデミーも、ロシアのサンクトペテルブルグ科学アカデミーも、王権神授説では支えきれなくなった近代国家が新たに据えた政治力学の「支点」であったのかもしれない。政治は、「テクノロジー科学」としての自然科学を制度化し、専門職業化し、そこで生まれた「科学的テクノロジー」を軍事的に利用して覇権を目指したのである。
それは同時に科学帝国主義と呼ばれる歴史を生んだ。18世紀まで西欧諸国はキリスト教を文明伝達の手段に使ったとすれば、19世紀は代わって科学と技術がその役割を果たしたのである。帝国主義時代の支配は、純粋科学という思想的道具と科学的テクノロジーによる軍事手段によって可能となったものだと佐々木氏は述べている。新たな帝国主義時代を迎えた感のある現代もまた、科学と技術の存在なくしては存続し得ない社会になったと言えよう。
科学と技術の問題を、政治経済学の重要な構成要素として観察したのがマルクスとシュンペーターである。マルクスは、周知の通り、自然科学は人間的解放を準備するとともに非人間化を完成させたと悲観的に捉えたが、シュンペーターは、政治経済と科学的テクノロジーとを別々の目的をもったシステムと捉え、政治経済システムが科学的テクノロジーを自らの要求に従属させるのだと説いた。それはまさに20世紀以降の資本主義的競争を支えた論理に他ならないが、その言において科学的テクノロジーを金融技術と読み替えると、何やら現代の経済社会構造がくっきり浮かび上がるようにも思える。
さて、何故金融におけるDerivativesの技術が米国で発達したか、という問いに対してはロケット科学者の大量失業を挙げるのが通説となっているが、それは現象の一面しか語っていないとも言えるだろう。米国は、シュンペーターが言う通り様々な科学に基づく技術を政治的に取り込むことに成功した国であり、金融もその一つに位置付けられる。金融工学は、言わば米国の政治的枠組みから生み落とされた一技術であり、それを例によって「形式輸入」したのが日本なのである。
◆ 科学的テクノロジーとは
前項で、科学的テクノロジーという言葉を簡単に使ってしまったが、佐々木氏に拠れば、それは科学が技術に不可欠の存在となる19世紀以降に生まれたものとされる。その代表例として、電信・電話などの通信技術、電灯のような照明技術などの電気技術がある。その後、熱力学や化学、分子生物学など様々な分野で科学的テクノロジーが生まれてきた。
そして20世紀に入ると現代のコンピューターの父とも言われるあの天才フォン・ノイマンが原子爆弾製造の理論を導き出した。政治がイデオロギーとして自然科学を取り込んでから3世紀、政治はついに最大のジレンマを抱えることになったのである。1945年の原爆の悲劇から60年経過したが、最近のイランや北朝鮮問題を見るにつけ、科学的テクノロジーの集結は社会をますます袋小路に入り込ませてしまった感もある。
一方、社会科学にも科学的テクノロジーの波が押し寄せた。特に金融は数理技術と解析の応用と、コンピューターの発達による計算技術の飛躍的向上で、論理的な思考を発揮しうる領域を指数関数的に拡大させた。佐々木氏の言葉を借りれば、まさに「技術は力である」。金融に利用された技術の詳細はここで述べるまでもないだろう。日本は、自動車やコンピューター業界同様、この技術水準だけに限って言えば欧米と遜色ない。
日本の金融は遅れているという世間(学者、政治家、メディア、無責任評論家など)の指摘に対して、筆者は様々な場所で「技術水準が遅れているという指摘は正しくない」と繰り返してきた。Derivativesにせよ、リスク管理の技法にせよ、日本の技術のどこが遅れているのか理解できない。遅れているのは経営能力や運用ノウハウ或いは市場整備など、技術以外の面であったことは既に多くの人が指摘しているところだ。
だがそうした遅れ以外にも、日本の金融の脆弱さとして、政治思想と金融の結びつきの希薄さも取り上げても良いのではないか。西洋諸国がテクノロジー科学をイデオロギーとして利用し取り込んだという文脈を借りれば、西洋の国家は社会科学として認知されつつあった経済学を政治的に取り込み、その延長にある経済学的テクノロジーとも言うべき金融技術を利用し、金融覇権を維持したのである。
それに対して、日本という国は科学としての金融を認識する暇もなく、いざシステム不安が起こった時には国家としてその重要性が認識出来ず、政策的対応が大きく遅れてしまったとも言えよう。金融技術の輸入には成功したが、それは経済社会のシステム安定のためには殆ど役に立たなかったのである。
もちろん日本の政治が金融を科学として捉えられなかった、というのは筆者の仮説に過ぎない。だが英国のマーチャントバンクや米国の投資銀行が政治とぴったり寄り添う形で発展してきた系譜を受け継ぎ、今でも政治と金融が深く結びつくアングロ・サクソン流と比べると、日本の金融の淡白さは歴然としている。小泉政権の郵貯改革議論の稚拙さは、政治の金融音痴とともに金融の政治音痴が露呈した現象でもある。
金融がこれまで政治経済的にどのような歩みを辿ったかという洞察は、金融を科学する試みだ、と言えるかもしれない。因みに世界史が「科学」であるためには、事実及び事実間の因果関係の厳密な追及が必要だといわれる。それも同時代のみならず、過去にまで遡って科学性が保たれなければならない。その歴史観に科学性をもたらしたのは、17世紀以降に生まれた近代の自然科学であることも異論はなかろう。
経済を世界史として眺める時、我々はどうしてもヘーゲルやマルクスを通して過去に遡る癖がついているが、政治経済システムにおける金融、特に金融システムの座標軸はもう少し自由である。金融の歴史を科学的に見ることは、金融システムと政治の因果関係を追及することでもある。日本もそろそろ金融政策の政治学ではなくこうした「金融システムの政治学」を考えても良い時期ではないか。