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◆「新しい中世」の「新しい金融像」

◆ ローン・セカンダリー

ある雑誌社からローン・セカンダリーの特集をやるので協力してくれと頼まれた。あれこれ雑用の多い身なので他の雑誌にまで執筆する時間は無いというと、取材をさせてくれという。このテーマはもう5年間喋り尽くしたので話すことも残っていないのだが、一つだけ、ローン売却と言うのは金融経営トップが余程腰を据えて取り掛からないと無理な話だと言う点を強調しておいた。

筆者の経験で言えば、ローン売却に関しては社内的な「抵抗勢力」を如何に説得するかが勝負である。金融システム的な理念といった竹中大臣流の答弁ではとても押さえ込めるものではない。喩えは悪いが、各行の頭取が小泉首相張りに「ローン売却を認めないのは倒閣勢力だ」くらいの発言が出来る様でないと、ローン市場など実験でお仕舞である。不良債権を売却するのと訳が違う。

やや視点を変えてみよう。市場を作るという時、まず取引や資金の流れを想定するのが通常である。債券なり融資なり、或いはCDSなり、市場といえばまず取引者間の「流れ」を考える。銀行や証券会社、保険会社など個体をイメージし、彼等のバランスシートに関与する債権・債務を思い浮かべる。そして理想的な市場を想定する。それは確かに一つの考え方だ。

だが日本の思考方法は、電気を発生させるには電流が流れることが必要で、そのためには電源が必要だ、という考え方に囚われすぎているような気もする。確かに、電流が流れなければ電球はつかない。電流が流れていても抵抗値が大きすぎると電圧は下がってしまう。従って、どうやって抵抗値を抑えるかを考え、電力洩れの低い回路を考える。センサーも必要だ、増幅器も入れた方が良い、といった議論になる。だが、肝心の電流が回路に流れるかどうかは電源の電圧次第だ。

どうすれば電流が流れるか。試験的に電池をつなげば回路に電流が流れる。だが日本のローン・セカンダリー市場を相当規模に稼動させるためには電池では不十分であり、何らかの自家発電動力が必要だ。それをどうやって作るのか、そこでいつも議論が止まってしまう。

発想を変えればよい。強力な磁場があれば電流は流れる。磁力が電流を生むからである。その磁力とは、まさに金融機関の経営力である。経営者が、ローン売買の必要性という強力な磁場を形成することによってのみ、ローンの回路に電流は流れ続けるのである。もはや担当者があれこれ悩む段階ではない。経営者、特に地域金融機関の経営者が率先してそうした磁場を作り出さない限り、ローン市場は絵に描いた餅であり、またいずれ到来する次期不良債権時代に、枕を並べて討ち死にする経営者が続出することだろう。

◆ ポリティクスの磁場

先に軽く触れた通り、日本の郵政改革という問題は、その技術的な是非は兎も角として小泉首相が作り出した強力な磁場によるものだ。磁場が電流を発生させるという意味で、現代の政治は興味深いテーマを数多く生み出している。田中明彦教授は、こうした現象を「権力政治」から「言力政治」へと表現し、「ワード・ポリティクス」という言葉で政治や外交におけるシンボル操作を自著の「ワード・ポリティクス」(筑摩書房)で説明している。

着想力、構想力、表現力、発言力、説得力、演習力など、すべて総合した言葉の力が現代の会議外交や首脳外交で重要な役割を果たしているという意味である。筆者は近著で「金融力」という概念を導いて日本金融の弱点を説明したつもりだが、田中教授は同じようなアナロジーで「言力」を日本外交に最も欠けた力だと説いている。

この政治における言力は、軍事力や経済力といった政治的優位に立つためのハードパワーとしての武器に対比して、一種のソフトパワーとして位置付けを与えられるものである。確かに、現在の外交的駆け引きにおいては、むしろ言力を利用して経済力や軍事力の効果を倍増させる方が賢明であるように思える。つまり言力は、まさに外交力という電力を得るための磁場を形成するものと捉えることが出来よう。

直接的なパワーに頼る政治は、例えば大量破壊兵器を保有しているように見せかける愚策を取ったイラクの旧フセイン政権や、核兵器製造によって国家の安定化を図ろうとする北朝鮮などに典型的に見られる。こうした「破綻国家」を相手にする場合にも、厄介ではあるが「言力政治」は引き続き有効な手立てであると田中教授は述べる。言力を磁場とする国際政治のコミュニケーションは、こちらの意向を伝えるだけでなく、相手の思考自体に影響を与えようとする機能も生むからである。

翻って、金融もまた預金量や自己資本比率といったハードパワーではなく、経営力から滲み出るソフトパワーが生み出す磁場によって、「場への参加者」に様々な思惑を生み出す可能性があると言えるだろう。前述のローン・セカンダリーの話は、その一つの例示に過ぎない。

◆ 社会のシステム

田中教授の論考には、他にも参考となる座標軸が多い。一つは、現代社会を「新しい中世」と捉える視点である。これは、時代認識の方法として「21世紀は米国の時代」といった直接的な表現よりも「1970年代の日本は昭和元禄」といった間接的な特徴描写に近いアナロジーで社会を捉える方法である。

間接表現は、筆者のコラムでも多用しているのでお解かりの通り、曖昧さを残すために本質をぼやかし、説得力に欠けるところがある。だが、それでもその社会の特徴を浮き上がらせ、様々な提案や提言を可能にする。金融市場に携わる人々にとっても参考になることが多い筈である。

田中教授の説に従えば、現代の社会は主権国家や国民国家が「相対化」された時代であるが、それは中世の欧州に見られた特徴でもある。当時の主体は多様性を持ち、その主体間の関係は複雑であったが、一方でおおまかなイデオロギーは一致していた。主体とは国家や国王に限らず、封建領主や騎士、都市同盟、修道院などであり、それらを繋ぐネットワークが稼動していたのである。

20世紀に至るまでの近代は、こうした複雑なネットワークを破壊し、軍事力を中心としたハードパワーによって、主権国家という巨大な主体にすべてを収斂させていったのである。明治維新以降の日本の発展プロセスも、この文脈をなぞることによって説明できる。

だが一方で、技術革新や政治経済的発展が多国籍企業や地域組織、国際組織などの新しい主体を生み始め、冷戦終結によって自由主義のイデオロギーの優位性が明らかとなり、中世に近い世界観が構築されつつある、と田中教授は説明する。

但し、世界全体がそうした新しい社会に埋め込まれている訳ではない。現代世界は、民主主義・市場主義が成熟し国家の役割が相対化してきた第一圏域(北米、西欧、オセアニア、日本など)、依然として近代的特徴を残し国家の役割が大きく第一圏域にまだ届かない第二圏域(中国、ロシア、インドなど)、そして根本的秩序が混乱し国家は名存実亡の第三圏域(アフリカなど)といった分類が可能である。

中世的特徴がもっとも強く現れているのは第一圏域である。そしてこの中世への再接近をもたらしたものこそ、グローバリゼーションなのであると田中教授は主張している。マッド・マネーの著者ストレンジ女史も、グローバリゼーションと国際金融市場の進展が国家の相対化をもたらしたと同様の分析を行ったが、彼女がそれを社会的な後退だと論じているのに対して、田中教授は新たな時代への変遷と位置付けている。

だがその「新しい中世」の抱える課題は大きい。第二圏域に大きな混乱が発生する可能性があるからだ。また第三圏域の破綻の余波も小さくない。本年のG8サミットは、この問題への取り組み姿勢を明確にしたが、第二圏域特に中国の政治経済とどう折り合いをつけるかは、各国がそれぞれ悩んでいる最中である。

20世紀後初頭のグローバリゼーションは、結果的に二つの世界大戦という犠牲を支払った。今回のグローバリゼーションも絶対に成功するという保証はない。この問題は極めて興味深いが、むしろ「世界潮流アップデート」のテーマに近いので、これ以降はそちらに譲ることにしよう。

◆ 金融の「圏域」

さて世界のシステムはともかく、日本の金融システムにも同じように第一、第二、第三圏域を定義することができる。第一圏域は、社債やCDSそして高流動性のシンジケートローンなどの市場機能が働きやすい企業金融であり、第二圏域はそこまでの機能にまだ達することのできない大企業・中堅企業の企業金融である。そして、市場という存在から遠く離れて公的保証や不動産担保主義に依存する企業金融が第三圏域である。

先日ご寄稿頂いた三菱商事のように、自らを市場金融機能の中に埋没させ自力で浮かび上がる調達機能を会得しようとする存在は稀であるが、そこまでの迫力は無いにせよ、幾つかの企業財務は、市場を味方につけることのメリットを感じつつあるようだ。金融機関からのお仕着せの協調融資を受け容れるのではなく、金融の市場化を不可逆過程と見てその利点を得ることを得策とする考え方である。これは、実に田中教授の定義する第一圏域に近い思想である。

だが日本ではその数は圧倒的に少数である。肝心の金融機関の経営者が第二圏域に止まっているという弊害もある。また政府が政府系金融の温存という形で第三圏域の存続を図っているという愚かさも手伝って、第一圏域の人々はむしろ割を食っているという気もする。これを変革するには、まず第二圏域の金融機関や企業財務が、第一圏域入りをするためのインセンティブを与える必要もあろう。

日本における企業金融の市場化は漸く始まったばかりである。ローン・セカンダリーもまだ実験途上であり、焦る必要もなかろう。ただ、気になるのは金融機関の経営者の「気の緩み」と金融行政の「上滑り」である。これが第一圏域で気を吐く人々の失望を買うことに無いように、もう少し時代認識を高めて欲しいと願うばかりである。

2005年08月26日(第105号)