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◆ 保守化する金融市場
◆ 市場は間違える
ディーラー稼業を始めた頃、「マーケットがこっちに行くなんて間違いだよなあ」とこぼして大先輩から怒鳴られたことがある。市場が間違うという発想は、自分が正しいという思考でもある。そんな大それた話があるか、市場に謙虚になれ、との言葉が今でも耳を離れない。
確かにディーラーは理路整然と間違うことも多い。自分で描いた通りの相場展開にならない。自分で組み立てた論理通りに指標が出るのに相場は反対へ向かう。命を取られる訳ではないと慰められても、悔しさを我慢するのも限界がある。思わず市場にケチを付けたくなるものである。だが市場は市場であり、間違いも正解もないのだ、と自分に言い聞かせてきた。
だが、本当に市場に「間違い」はないのだろうか。市場の動きは絶対でありそれを否定することは市場主義を否定することになるのだろうか。市場価格を間違いのない市場情報として受け容れ、それを絶対的な与件として納得しなければならないのだろうか。
たしかに市場価格は客観性に優れ、また多数の人々の参加による総意を具体的に表現するものである。市場のトレンドは、そうした客観的総意の方向性を、或いは市場に関係する人々の心の中を映し出すものである。従って、それを無視することは民主的な指標を拒絶することにもなる。だがそれを以って、市場を盲目的に受容することのリスクを考えなくて良いということにはならない。民主政治が、危険な首領を担ぎ出すことも往々にしてある。
ディーラーは、市場に謙虚でなければ稼げない。それは市場の公理(真理とは言えない)である。だが国民がすべてディーラーなのではない(と言うよりも、全員がそうなってはいけないのだ)。財政赤字や金融問題は深刻だなどと大上段に構える必要など無い。単純に生活水準や満足度の向上に対して、市場が間違ったメッセージを発していることのリスクに敏感でなければならないだけである(ここで言う市場の間違いとは、相場のオーバーシュートといった類の話ではない)。
例えば、最近の日本の株式市場について考えてみよう。日本の株式市場が、小泉政権の「痛みを伴う改革路線」に厳しい拒絶反応を示した時、それは厳しい政策を嫌気して下落したものであった。だがそれを以って、金融改革を避けるべきであったかと言えば、それは違う。当時の不良債権処理政策を評価しない人は少ないだろう。だが市場は、国の長期的利益に対しては明らかに相反するメッセージを発していたと言えるだろう。
その後日本経済が「痛みの少ない改革で景気回復」を実感したところで株価は次第に反転し始める。そして本年総選挙での小泉首相の大勝によって、その上昇加速度を増幅している。それは逆に日本の危機感を薄め、まともな(或いは、真面目な)構造改革など何一つ進んでいない現実から目をそらしている。これもまた市場の間違いとは言えまいか。日経平均で14,000円を越えたあたりからの株式市場の猛烈な上昇展開には、勘違いを通り越してむしろ拝金主義的な傲慢さを感じないではいられない。
誤解を恐れずに言えば、ディーラーは、間違おうが正しかろうか、市場の行く先を追いかけねばならぬ。株高やドル高のモメンタムが強いトレンドに対しては間違っても「市場は間違っている」などと考えてショートしてはいけない。アナリストも、さらなる株高やドル高の見通しを述べることは予想出来ても、市場はこうあるべきだとは言えない。金融市場で飯を食う業界は、市場は間違っていると指摘することは出来ない。それは、ある意味で「哀しく閉じた世界」なのである。
◆ どうした債券市場
債券市場の金利決定のメカニズムは複雑だが、敢えて単純化すれば金利水準は長期債投資家の思惑の集合として決定される。それは従来、財政赤字には極めて否定的な性質を抱いていた。財政赤字拡大が債券価格の急落を招いていたのは、それほど昔の話ではない。米国Clinton政権時代に、ある選挙参謀が「生まれ変わるとすれば、なりたいのは大統領や教皇ではない、債券市場だ」と述べたのは有名な話である。
財政赤字は債券市場の敵であった。財政への取り組みが曖昧だと見れば、債券市場は容赦なく売りを浴びせてきた。政府は債券市場で金利が10BP上昇するたびに、財政負担がいくら上昇するかを怯えながら計算していた時代である。債券市場とは、金融政策と財政政策に影響を受けながら、一方では政府に政策改善への圧力を加える厳しい存在であった。それは、米国だけでなく、日本も欧州も同じであった。
だが最近の債券市場は様変わりである。日本では、機関投資家がもっと国債が欲しいと財政赤字を許容するどころか、赤字拡大にさえ理解を示しているフシもある。米国にとっても、アジアや中東の貯蓄余剰国は米国債の大量購入者であり、米国が財政赤字を急縮させれば、運用先に困るのは眼に見えている。程度の差はあれ、欧州の財政に関しても似たような情況が見える。
債券市場は、今や主要国の財政事情に最も同情的で物分りの良いパートナーになってしまった。ここでもディーラーやアナリストは、投資家はこれ以上国債を買うべきではない、長期金利が下がるのは間違っている、などと言う立場にはない。市場が底堅い時に売れば踏まれるだけである。機関投資家が買う以外に選択がないと解れば、先立って買うしかないのがこの業界である。財政問題への自浄作用は、金融市場から消滅してしまったようにも見える。だが、それはなぜか。
その背景には、やはり市場の構造変化がある。ヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンドなどの台頭に代表される強烈な投資家主義が、おカネを「金融という文脈」ではなく「増殖すべき個別商品」として見る行動形態の波及に大きな影響を与えたと見ることが出来よう。これは超緩和の金融政策とは無縁でない。この過剰マネーが過去5-10年ほどの短い間に、市場の思考形態を大きく変化させてしまったように思える。
勿論、債券市場に関してはまもなくFRB新議長に就任するBernanke氏のいう貯蓄過剰が大きな要因となっているという分析も頷ける。但しその延長論として、貯蓄過剰が70年代や80年代のように金融機関への預金でなく、ファンドを通じて資本市場に流入していることが、こうした現象を加速化させていると見ることも出来るだろう。
◆ 為替市場よ、お前もか
為替市場では、財政赤字・経常赤字とドル安懸念、といった警告のメッセージが死語になりつつある。現在は、双子の赤字に加えて40%程度の支持率すら稼げないブッシュ政権のレイムダック化という、新しい米国売りの材料もある。グリーンスパン議長は繰り返し現状の経常収支は永続し得ない、と警鐘を鳴らしてきた。だがドルは下がるどころか上昇し、不均衡拡大で世界的なドル離れが生じてドルは急落する、といったシナリオを吹き飛ばしている。
ここにもまた、債券市場と同じ構図が見える。ドルを買うしかないとする考え方が、ドルは危ないという従来の発想を蹴散らしているのである。つまり、ドルを警戒して売れば売りが売りを呼び、デス・スパイラルの如く自分の首を絞めるという恐怖観は、市場にとって排除すべき概念なのである。運用の世界が、ドル売りを許容できない程に拡大してしまった、とも言えようか。
ここにも、銀行や大企業の経営問題に見られたような、一種のToo Big To Failの論理構造が定着してしまったのではないか。ドルは巨大過ぎて売れないのだ。ドルの急落は、もはや誰も望まない。日本や中国だけでなく、中東もロシアも、そしてファンドも皆、ドル下落リスクに怯えている。世界の不均衡問題がドル急落を呼ぶのではなく、ドル急落への懸念が不均衡の問題から目をそらし始めているのではないか。金利差は確かにドル高を支える一要因だが、それが本質的問題を隠匿させてしまっているとすれば、それはそれで深刻な問題だ。金融政策はそうした視点から批評されても良かろう。
仮にそうであれば、ドルが急落せぬように皆がドルを買い続けるしかない。現在の世界の金融市場は、日本の超緩和政策にも支えられてまさに「ドル再生機構」と化している。これは「市場の死」ではないか。我々は、ドル買いを進めることによって不均衡感覚を麻痺させながら、実はそうした恐怖の均衡に嵌りつつあるのかもしれない。もっとも、病巣を隠し切れずに崩壊した邦銀システムのように、いずれドルがあっさりと下落して「投資家の死」をもたらすことになる可能性が無い訳ではない。「Too Big To Fail」など虚無の思想であった、と思い知らされる日が来ないとは限らない。
◆ 保守化するマーケット
金融市場はそもそも保守的な場であると言われる。株式市場はその典型で、昔流に言えば兜町にとって自民党勝利は株高期待として好感されるニュースであった。米国でも、ウォール街には共和党支持が多い。総じて、金融界は経営陣も市場も揃って保守的な傾向を好むと言えるかもしれない。
それは別段、善悪の範疇で語るものではない。だが現在の様々な市場を傍目八目の立場で見ていると、上記のように、従来の保守とは性質の違う「新たな保守化」が進み始めたように感じられる。それは、市場構造自体の現状維持を求める新保守である。換言すれば、金融市場はもはや現実経済を映す鏡ではなく、現実経済から独立して生きる組織共同体と化したのである。
従来の金融市場が映し出すのは社会の写像であった。ある政策を金融市場が「歓迎」しているように見えたのは、経済社会が政策を歓迎したからである。だが日本株式の最近の動向は、むしろ自らの利益の為の政策を要求しているかの如くである。いま市場が歓迎しているのは、小泉改革という「実に国民負担のない似非構造改革」なのだ。
現在の金融市場は、己を傷付けることのないような政策を歓迎する傾向が強くなった、と言っても良い。市場の独立である。市場において現実社会とは無関係に超過利益の追及が可能になったことはヘッジファンドを見れば一目瞭然であろう。Long/Shortの戦略は、原理的には経済成長などなくても儲かる仕組みである。プライベート・エクイティも、マクロ経済に関係なく特定企業が成長すれば良い。国益とか成長率とか、或いは国際経済の発展といった高尚な話とは関係がない。自分の視野に入る領域だけが発展すれば良い、という極端な運用論理さえ現代金融は受容しつつあるように見える。
従って、今や金融座標軸の原点に居座った運用主たちには、国益を考えた構造改革や、不均衡拡大から演繹されるドル急落などご勘弁、という発想が生まれる。この市場の行動を見て、評論家やエコノミストが「市場はこう言っている」などと解説し始めれば、何が起こるのかは容易に想像できよう。
市場は間違えるのである。日本の市場も例外ではないだろう。金融市場の観察だけではなく「金融市場の誤解・曲解」までも見抜く洞察力が必要なご時世だ。2006年の金利や為替、株価動向は気になるところだが、この場で長期的な予測をしてもどうせ当たらない。それよりも、不自然なまでに保守化し自家中毒を起こしかねない金融市場の行方の方が、より心配である。
本年初から連載を開始した「金融力の現代史」は本号で終了する予定でしたが、思わぬ反響を頂いたこともあり、来年も何とか続けられるように努力します。解りにくい文章を読み続けて頂いた読者の辛抱強さに感謝致しますとともに、皆様が良い年をお迎えになりますよう、心より祈り申し上げます。