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◆ ライブドアの金融史的意味

◆ 米国経済観の後追い社会

日本の金融機関経営が10年遅れ、周回遅れ、と徹底的に批判されたのはほんの数年前のことである。だが10年遅れであったのは金融機関だけでもない。企業金融も金融行政も、或いは金融市場も同じように遅れた訳で、ある特定の人々の資質が劣っていたとは言いにくい。さらに言えば、日本の経済社会感覚そのものが周回遅れであったことは否めない。それを見事に演出したのが、ライブドア騒動であった。この事件を金融史という視座で観察することにより、一つの重要な教訓が与えられるように思う。

地検特捜部によって解明されたライブドアの「悪行」は、粉飾決算や風説の流布などごくありふれたものである。粉飾総額は90億円程度であり、カネボウの2,000億円には遠く及ばず、またワールドコムの70億ドル粉飾という途方もない金額に比べれば、誤解を恐れずに言えば、特捜部が動くほどのたいした金額でもない。

捜査当局のゴールが別のところにあるのはもはや自明である。まだ憶測に過ぎないが、同社の一連の財務取引に反社会的勢力の資金が関わり、その洗浄に金融機関が協力したといった噂も出ている。政治家の関与も囁かれている。「本丸」がいずれ明らかになれば、ライブドアは主役の座を降りることになるかもしれない。

いずれにしても、ライブドア事件の本質は組合を使った複雑なスキームという技術的側面にはないし(前号の編集ノオトで述べたとおりだ)、自民党が堀江氏を応援したといった皮相な政治的意味でもない。東証の怠慢経営問題も枝葉に過ぎない。同氏が逮捕された法的根拠は「投資家を騙した」という点にあるが、より大きな流れで問うならば、ライブドア事件は、日本社会が21世紀以降の新たな社会モデルとして依然として「旧き良き米国経済像」の幻影を追いかけている哀しい現実を示したとも言えるだろう。

何年遅れなのか、何周遅れなのか、といった議論は意味が薄いが、ぼんやりと窺えるのは、小泉政権下のリベラリズムが1980年代の米国像を盲目的に理想として位置付けてきたことだ。当事の米国は、小さな政府を目指すレーガン大統領のもと、新自由主義、資本主義の徹底で国力を増強し、強い米国として「悪の帝国ソ連」に対峙していた状況だ。

昨今の日本も、強圧な小泉政権のもとで小さな政府を目指し、徹底した資本の論理を賛助し、株主を重視した企業経営像を要求し、中国を仮想敵国さながらに位置付け、ナショナリズムの昂揚時代を迎えている。福祉国家主義の「第一の道」を批判したレーガン・サッチャー流の「第二の道」は既に役割を終え、欧州では既に「第三の道」が敷かれているが、日本はまだ「第二の道」を遮二無二歩んでいるのが実態だ。

米国の金融・経済的インフラ強化は1990年代の栄華を生んだが、その発想の先鋭化はエンロン、ワールドコムの崩壊やITバブルの破裂をもたらした。現代米国社会は最低限のセーフティ・ネットの確保を主張し始めるなど社会保障への問題意識が急速に高まっており、一転して政府の役割の重要さも見直され始めている。これをハリケーンや石油・ガソリン価格の高騰といった特殊な要因だけで説明することは出来ない。日本社会はそうしたトレンドに気付きながら、米国が辿った道を黙々と追いかけ、拙速な改革意識のもとで同じような失策を演じてきたように見える。

◆ ライブドアの功罪

前号で述べたように、ライブドアの功績には評価すべき点が少なくなかったのは事実である。保守論客が繰り返す批判にも一部真理はあると認めるが、新興企業として堂々と既存勢力に立ち向かうことを目標とする経営者にとって、多少無理が生じるのは致し方のないことである。

勿論、ライブドアの行った一連の会計操作は許されたものではない。はっきり言って悪質である。だが金融のプロから見れば極めて悪質だという感覚を、金融のド素人である堀江氏が共有し得なかった、という可能性はある。だから無罪というわけには行かないが、同氏本人が確信犯という根っからの悪人であったどうかはわからない。それは、金融リテラシーの欠如から来る悲惨な結果だったのかもしれない。金融の素人が金融のルールを知らないまま金融に入り込んで金融を玩具にしようと画策した、まことに幼稚でお粗末な結末だという感も強い。

それはまさに金融史的な意味で、日本による「80年代の米国経済社会追随」がもたらしつつある弊害であると言えよう。金融原理の教育というべきか、経済倫理の教育というべきか、そうした資本主義社会の基本を教えずに、いきなり資産運用や株式投資などの極端に狭窄な教育に走ろうとしているのが日本の現実なのではないか。昨今は、ご当局までが米国流の株式教育やデイトレーダー講座を模倣したような教育を「貯蓄から投資へ」と奨励しているご時世である。こうした社会の波が、ライブドア的な革新的路線を株式市場で持て囃す風潮を生んでしまったのではないか。

これを市場原理の敗北だという言い方で批判するのが巷間流行しているが、市場メカニズムという概念はあっても市場原理などという原理はどこにも存在しない。1月30日の朝日新聞で、経済産業研究所の小林慶一郎氏はやや緩やかな表現で「市場主義の修正が求められている」と説くが、それは保守派からの市場原理批判とあまり変わらない。日本で批判されるべきは、市場主義そのものではなくその幻影から勝手に帰納された金銭主義なのである。

貯蓄から投資へ、という命題が誤りだとは言えないが、投資とは本来難しい作業である。最近では「貯蓄でないものが投資だ」と言わんばかりに、デイトレードも投資、20倍レバレッジの為替証拠金取引も投資であり、識者たちはライブドアに群がる個人投資家の注文の嵐を受けきれないインフラを「世界の恥だ」と言って責める。怠惰な東証が責められるのは当然であるが、一方で400万件の取引を超えるような取引数を抱える社会像はいったい正常なのか、と問う声が聞こえてこないのは不可思議である。

NYSEの約定件数は1,000万件程度で処理能力はその5倍あるとか、1時間当たりの処理能力は4,600万件だといった数字が飛び交っているが、そもそも米国と日本では運用の文化が全く異なっていたのは周知の通りだ。一方でマネーゲームを批判しながら、同時にマネーゲームという新しい投資のインフラを拡充しろという論理矛盾は、80年代米国一流の自由の履き違え、或いは彼等のダブルスタンダードの優れたコピーのようにも見える。

◆ 金融経営の皮相的模倣

やや脱線するが、日本の金融機関の経営もライブドアを笑えない。銀行経営者が辿った道筋は、まさに米銀がマネーセンターバンクの集中再編を余儀なくされた1990年代の動きをそのまま真似したものだからである。既に尽くされた議論でもあるが、1992年のケミカルによるマニハニ買収を契機とする米銀再編は、最終的に全米3行体制にまで行き着いた。その過程ではシティとトラベラーズという異質の再編までも巻き込んでいったが、株価で見る限り市場はこうした大型再編の結末を高く評価しているとは言い難い。

米銀再編は、文字通り弱肉強食の買収であり、資産規模や従業員数は時間をかけながら1+1=1.5くらいに組織化していった。それくらいの合理化をやってもなお、巨大銀行化には苦しみが付きまとったのである。マニハニ・ケミカル・チェースを手本とした日本の大型三行合併に同じことを期待することは無理であったが、彼等の戦略思考の中には米銀経営の方向性を模倣することしかなかったのであった。

私が以前「巨大銀行はいらない」(Voice 2002年12月号)と書いたのは、銀行の巨大化が必ずしも生産的でないと考えたからである。当時はまだ欧米でも巨大化の流れが続いており、私の論理は時代にそぐわないと一部から批判を浴びた。確かに公的資金注入が現在の金融システム安定に寄与したことを考えれば、国の援助によるメガバンクの育成は、正しい選択であったと見ることも不可能ではない。だがそれが唯一の策であったとは言い切れない。当時の資金需要の急速な減退や中小銀行の意外な健闘などを見れば、巨大銀行がなければ、国債受け皿という存在意義を除けば、金融システムが崩壊したとは言えないだろう(但し、公的資金で不良債権処理を進めた政策は正しく評価すべきだろう)。

現在のメガバンクにおける戦略対象は中堅・中小企業向け、不動産関連融資、住宅ローン、消費者金融など別にメガ・スケールを必要とする業務ではない。むしろ地域金融機関や郵政会社と競合して疲弊する可能性を含んでいる。M&Aなど投資銀行分野や資産運用など新規業務への傾斜を考える銀行もあるが、これも別に「メガ」である必要はない。「メガ」であるが故に何らかの大掛かりな戦略を必要としている、というやや本末転倒の事態は、間違いなく最近の大手米銀経営に見られる苦悩を後追いしているものだ。

これは米国の金融経営を皮相的に模倣した結果である。ライブドアもメガバンクの経営も、米国の姿を追いかけた末の結果なのである。だが、それは米国が悪いお手本だったと短絡的に考えるべきではない。米国の真の姿を、我々は果たして理解していたのだろうか。特に金融や資本市場の姿、そして金融技術などを、日本は極めて表層的に理解していただけではなかったのか。

◆ 金融現代史の中で

米国は、世界史の大きな流れの中で転換点を迎えている。政治的には2001年の9.11事件を契機に転換しているとも言えるし、企業経済においては同年12月のエンロン事件が象徴的であるとも言える。もっとも、双子の赤字構造が顕著になった時代や急激なドル安が必要となった時代から、既に米国は経済的転換点にいるのだと見る人もいよう。

確かに世界におけるGDPシェアでは既に衰退が始まっているし、社会学の分野では既に「米国の終焉」は既知の主題となっている。そんな米国の位置付けとともに、懸命に米国の後姿を追う日本は沈没に向かっているという議論を展開していくことも出来ようが、あまりに日本社会を自虐的に非生産的に過小評価することは止めよう。

少なくとも金融を取り巻く環境を見ればまだ米国は強い。資金の牽引力も資本市場の強靭さも、運用力の鋭さも世界一の座は揺るがない。金融市場の中心にあるのはやはり米国であり、市場を先導するのは米国である。米国の金融政策は、グリーンスパン本位制は終わったものの、未だ世界中の金融人が関心を寄せる最大の関心事である。その金融力の中に、日本が見習うべき事はまだ多い。それを追随するのが悪いとは思えない。選択的に米国に追随する意味は、まだ残っている。

だが、その際には米国の現実を熟視する必要がある。ヘッジファンドの存在もその一つである。彼等が金融社会にとって必要なのは、代替投資としての存在であり、市場の歪みを是正する触媒としての機能であり、またリスク要因分散の受け皿である。ヘッジファンドという組織が必要なのではない。現代金融に必要な機能・役割を担っているのが、たまたまヘッジファンドなのである。それを間違って理解してはならない。

日本にはヘッジファンドが殆ど無いが、それを以って嘆くことはあるまい。日本の市場に足りない機能を果たす組織が生まれればよいのである。前述した「巨大銀行はいらない」の小論中に述べたのはまさにこれである。日本にクレジット・リスクを分散する機能が働き、市場の歪みをアクティブに是正するディーリング機能が発達し、日本株や債券の代替になる海外投資機会が豊富に提供されれば、日本にヘッジファンドなど要らないのだ。

またアクティヴィズムの存在も同じようなものである。日本では、米国資本主義はあらゆる場面で株主が監視していると思われているが、米国株の最大の投資家であるミューチュアル・ファンドや年金基金が、村上ファンドのような機能を果たしている訳ではない。彼等は、ダメな経営者の企業の株は売るだけである。資本の論理を盾に経営介入を強硬に主張する一部の米国投資家(アイカーン氏やカーコリアン氏など)は、未だに米国社会の嫌われ者で必ずしも経営改革に成功している訳ではない。米国における資本の論理の稼動状況は、日本では「意識的に」曲解されているように思える。

また一昔、日本で流行した「米銀は企業でなくプロジェクトにファイナンスするのだ」というまことしやかな説が流れたのも、米国金融を美化するキャンペーンであった。米銀も、通常は企業にカネを貸しているのである。ただ、その際にはその資金使用使途と返済計画をきちんとチェックするということに過ぎない。一方で、本来日本が追随すべきだと思われる米国式のクレジット・プライシング機能やクレジット・リスク分散思考には、まだ背を向けたままである。

金融に限定して言えば、まだ米国に追随する意味は大いにある。それは筆者の元同僚である関岡英之氏が主張するような「拒否できない日本」(文春新書)だからではない。追随すること以外に選択肢は無いと考えたところに問題があったのである。米国金融の真の良さを消化できるのであれば、日本はまだ米国の金融力から選択的に学ぶことは可能だ。

拙速を重んじて数々の失策を連ね、80年代の米国的社会という妄想を追いかけてきた小泉政権下での社会意識の幼稚さを悔やんでも仕方ない。せめて金融においては、ライブドアが暴露してみせた、単純化された米国像の追随の愚を真摯に受け止め、数年前に金融経営が陥った罠に嵌らぬように、日本金融の将来像を見極めたいものである。

2006年02月10日(第116号)