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◆ 弁証法的市場主義論
◆ 流行する格差社会論
日本社会は、市場主義への嫌悪感を表現する時に「市場原理」という言葉を盛んに利用し「市場主義者が市場原理を濫用して日本社会を壊滅させる」と批判する。ライブドア事件以来、それがエスカレートしている感も否めない。金融ビジネスも、その文脈で攻撃されることがある。金融は「市場経済」の中心部なので、そのように取り扱われ易いとも言える。
だが金融ビジネス界において、社会のすべてを市場主義という物差しで判断する人がどれほどいるのかは疑問である。むしろ、金融における市場性の危なっかしさを熟知・理解しているだけに、市場主義の適用範囲を誤ることの危険性を感じている人の方が多いのではないか。その点では、むしろ小泉・竹中コンビや一部行政の過激派の方が、より「市場原理主義」に傾いているような気がする。藤原正彦氏が「国家の品格」(新潮新書)や文芸春秋3月号で徹底批判する対象はこの路線であり、金融市場そのものの性質ではない(もっとも同氏は、結果として双方を混同させるというミスを犯している)。
市場主義は、分配ルールの客観化を通じて飽くまで経済社会の効率性の向上を目指すものであり、自ずとその適用範囲は限定されていく。効率性だけの視点で判断できない分野は幾らでもあるからだ。金融は市場メカニズムに依拠するシステムである為、すべて市場主義が貫徹しているように思われがちだが、中小企業金融や寄付・贈与・貸与・相殺そして債権放棄といった行為などに見られるように、市場主義で割り切れない分野もある。どこで線を引くかは各々の価値観に左右される。曖昧なようだが、人間社会など所詮不条理なものであり、合理的な線引きなど土台無理な話である(オプションに代表される金融工学ですら、ボラティリティという極めて恣意的な材料で如何様にも料理出来るのだ)。
市場主義を、現代経済社会の唯一の政策「原理」だと考えるのは、まさに米国一極主義の国際政治観に通じるものがある。米国一強時代は歴史の偶然の産物である。もちろん現在の国際システムの多くが米国型の価値観に基づいているのは事実だが、それは普遍的な原理ではない。世界が多極化し、通貨制度も資産運用も米ドル一辺倒の時代から大きく変化し始めたように、経済・金融を見る視点も市場主義を加味しつつ多様化している。市場主義の適用範囲に関しても、多様な目線の集合としての、一種の社会的合意が必要されるのではないか。
市場主義を批判するのは建設的でない。市場主義を盲目的に拡大解釈するのも残酷極まりない。それがどこまで有効かを問う通念としての社会的認知という一段高いレベル、或いは非市場システムと市場主義の対立・相克を克服する議論が弁証法的に必要とされているのではないか。以下その前段の準備として、市場主義の適用に関し、やや旧聞に属する話題になるが、公団民営化議論で注目を集めた高速道路問題や、不良債権で話題になった中小企業金融問題、村上ファンドで耳目を惹いた株主問題などを採り上げながら考察してみよう。
◆ 都市型市場論と田舎の経済学
一昨年の道路公団の民営化議論ほど、都市部と地方の「意識の二極分化」を徹底的に洗い出したものはなかったと言えるだろう(結果は惨憺たるものではあったが)。財政における地方分権など、現在では中央政府と地方自治体との軋轢も顕著になっているが、道路問題における意識の落差こそが永遠に歩み寄れない両者の溝の深さを物語っている。だがその溝はいわゆる市場観で解析できる類のものではない。
公団の民営化議論は、大手メディアによって民営化委員間の「人間ドラマ」として編集されて描写され、例によって本質が霞んでいった。だが比較的合理的で冷静な意見を徹底させた川本裕子委員の存在によって、辛うじて問題の低次元化は避けられた。元同僚としての贔屓目で言うのではなく、あそこに川本氏がいなければ、完全に猪瀬氏演出の自画自賛的ワイドショーに仕立て上げられていたことだろう。
だが、かといって川本氏が完璧な提言をしたとは思えない。彼女の言もまた一件合理的に見えて、実は都市部知識層というごく一部の意見を代表したものに過ぎなかったからだ。道路の存在価値は、都市と田舎で全く異なる。都市における道路の経済学は、田舎では机上の空論に過ぎないどころか、悪の経典なのである。ここに市場主義における合理性の限界を見ることが出来る。以下、やや意図的に田舎に目線をおいて、話を進めてみよう。
石原大臣(当時)は「北海道の高速道路には車ではなく熊が走っている」と述べて物議を醸した。確かに熊が走っていることもあるかもしれない。それは事実かもしれない。重要なのは、熊も走るが、それと同時に自動車も高速で走れる道が存在しているということである。田舎の経済学においては、それこそが生命線なのだ。
実測調査を行って、一週間に熊が10頭走り自動車が5台しか走らなかったために、その道路は不要だとする論理展開は客観的に正しいと言えるのだろうか。その5台の自動車によって経済的に利便を得る人の社会的採算は、その論理では計れない。鳥取の山奥で育った筆者は、高速道路がないために物流で劣後し、ビジネス機会を失って廃業が続出した地域経済の苦しみを実感してきた。田舎における高速道路のコスト計算の論理は、首都高や東名高速のそれとは大きく異なるのではないか。勿論、こうして田舎の肩を持てば、無制限に高速道路が出来てしまう。その判断基準の国民的合意手段を探ることこそが、真の改革の目的であった筈である。
市場主義或いはコスト主義といった概念を適用するには、その合理性が浸透する環境かどうかの社会的判断も必要である。地方社会に市場主義が不要であるなどとは言わない。例えば、資金調達に関して信用度の異なる地方自治体に格差が生まれるのは当然である。だが「自動車が10台しか走らないから道路は不要」だという計算論理は、非ユークリッド空間に、三角形の内角の和の公理を持ち込むのと同じである。市場主義は、無くてはならない道具だが、万能の公理ではない。小泉首相らによって喧伝された「民が市場主義で官が社会主義だ」という二元論が、現代日本の「悲しい二項対立」を生んでいることも論を待たぬ。
◆ 負債と資本の分類の必要性
中小企業への「貸し渋り」「貸し剥がし」問題は今では死語になった感もあるが、銀行問題と裏腹の関係にある中小企業金融問題は、多くの人々の関心を集めてきた。そこでも市場主義の徹底と社会主義的政策の二元論が持ち込まれ、有益な議論の展開が不能となっていったのである。だがこの議論は焦点がボケたまま、経済回復によって争点がウヤムヤにされてしまった。
この問題に鋭い考察を与えたのは、本誌執筆者の一人である多胡秀人氏である。同氏は、中小企業金融の悩ましい問題はそのバランスシートの性格に在ると論じた。即ち、中小企業にとっては、負債と株式に明確な線引きが無いという事実の再認識である。銀行融資は、地方の中小企業にとっては一種の「出資」であるという擬似資本性を指摘したのである。
これは納得のいく議論であった。銀行は3ヶ月、6ヶ月といった期限を設定しながらも自動的に、そしてほぼ永続的に融資を更改するのであり、企業もこれを期待している。資金の性格として、出資とほぼ同じことだ。こうして負債・資本の区分が不明瞭なまま銀行と企業の関係が続く。典型的な地方金融であり、これが地方経済の基盤となっている。
ファイナンスの教科書流に言えば、これは銀行の経営管理として失格である。だから教科書に基づいて貸し渋り、貸し剥がしが起こったのだ。非効率な企業、非生産的な企業、倒産同然の企業がこれによって「生存可能」になっていると行政は判断し、地方銀行は定量的な判断によって融資を中断せざるを得なくなった。この施策が全くの誤りであるとは言えない。むしろ「前進」と見ることが出来る。だがその前進の方向に誤りがあったことは否めない。
金融行政が、擬似資本の必要性やその重要性を重視しなかったのは失敗であった。過小資本の日本の企業社会において、擬似資本は必要なファイナンス方法であった。それを供給できるのは地域金融機関しかなかった。ここは市場主義が及ばない。いや、市場主義が助けにならない社会では、市場主義は物差しになりえないと考えるべきである。行政はその非市場的社会を定量主義的な自己資本理論で自動診断するという愚策に走り、愚鈍なメディアによる歓迎論がそれを煽った。
私が2002年に「金融市場は謎だらけ」(日経BP社)で主張した論旨は「市場システムを利用しながら市場論理を反映させないズルイ資本市場社会」に対する批判であった。具体的には上場企業と銀行の関係である。社債やCDS市場、大企業への融資の流動化をテーマに据えたその議論の中で、正直言って中小企業のファイナンスは全く考えていなかった。金融としての世界像があまりに違ったからである。
古臭い日本型資本主義が非効率を温存したのは事実である。新しい試みが、それを破壊した点は評価できるが、それを以って必要なものまで排斥した罪を見逃すわけにはいかない。市場主義は、市場性資本主義がファイナンスの基盤を供給する社会においてのみ、通用する概念なのである。
因みに、欧米市場ではいま株式と負債の中間の性格をもつHybrid Financeが流行の兆しを見せている。これは転換社債とはまた違った商品で、利息は高いが業績が悪くなれば借入れ企業側の判断で利息の支払を止めることが可能になるという、株式の性格をもつ超長期債券だ。これは、アングロ・サクソンが日本的ファイナンスのアイデアを借用したように見える。株と負債を教条的に分離分割する必要があるのか、日本も再考してみてはどうだろう。
◆ 個人主義的な株主主義
昨年の村上ファンドの活躍は、一般社会に株主と株式の意味を再考させた。実際の議論の矢を放ったのはライブドアであったが、資本市場における金融資本の機能を通じて、会社とはいったい何かを考えさせた意味は大きかった。好き嫌いは別として、村上氏の言動には一定の真理が含まれていた。だが、同時にそこには毒素も混入していた。それは「金融資本の論理こそが資本主義社会の絶対論理である」という解り易い、従って誤解を呼び易いメッセージであった。
村上ファンドを応援する声は、金融界に少なくない。非効率や不作為を覆い隠す伝統社会に風穴を空ける役割を果たしているからであろう。昨年のBMAへの投稿にもあったように、休眠不動産の活用、含み益の顕現化、増配要求など、村上ファンドが超保守化し硬直化した経営を揺さぶった例は多い。同ファンドに狙われぬように、自主的に軌道修正した企業もあるだろう。
だが、村上ファンドは日本経済に風穴を空けると同時に、株主資本主義という矛盾に満ちた社会のパンドラの箱も空けてしまったのである。因みに海外では一足先にヘッジファンドらがその役割を担い、アクティヴィスト達が至る所で旋風を巻き起こしている。日本では、村上ファンドが従来の金融村に「資本の論理」を錦の御旗に仕立てて参入し、株主至上主義こそが不可侵のルールだと主張し、金融知識人の支持を得た。そこに裏付けされているのは、アングロサクソン流の個人主義的株主資本の考え方である。
このファンドを率いる村上世彰氏の勢いには、数年前の木村剛氏に付きまとった怪しさが重複して見える。木村氏もまた「新しい銀行の論理」を引さげて登場、竹中大臣のサポートを得て、従来の銀行村に突入した。それは袋小路に陥った銀行経営を再考させるという、村上氏のケースと全く同様の重要な効果をもたらした。だが、木村氏による新銀行の試みは無残にも打ち砕かれ、新しい銀行は結局古い銀行の壁を打ち破るどころか、自らその古いシステムに埋没しようとしている。風穴を開けたつもりが、墓穴を掘ることになってしまったのである。
両者に共通するのは、伝統的・閉鎖的・硬直的な非市場的社会を破壊し、新たな市場社会を生み出そうとする理念である。これには掛け値なしに共感を覚えるものである。だがそれだけでなく、破壊した後目指すべき方向性を間違えているというもう一つの共鳴できない共通性も感じないではいられない。二人とも、市場主義の適用範囲を過大評価しているのである。ライブドア事件によって金融をはじめとする市場主義に不当な批判が強まる中で、日本の金融市場は、政治と同様に、木村・村上両氏の誤解を乗り越える第三の道の創造・構築を始めなければならない。