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◆ 構造主義的金融論
◆「金融」という抽象世界
親会社であるフィスコに多数の若手が入社してきた。彼等にレクチャーする機会があったので、その際に「金融」をどのようにイメージするのか聞いてみた。答えは、ほぼ「おカネが流れること」という概念に集約された。彼らの出身が大手銀行や証券会社であることを考えれば、ほぼ妥当なところだろう。金融だから「お金の融通」といった回答を予想していたが、延々と続くゼロ金利時代を反映してか、「利息を生むカネの融通」という概念はあまり一般的ではないのかもしれぬ。
「おカネが流れる」であっても「おカネを融通する」であっても、その取引や現象、社会というのは抽象的世界以外の何物でもない。従ってそれは実態のない概念であるとも言える。そもそもおカネという存在自体が、具体性を欠いている。金や銀ではなく中央銀行の信用という無形価値に依存するという意味の他に、(やや乱暴ですが)中央銀行という存在すらも人間が勝手に作り上げた虚構でしかない、と言えなくもないからだ。
中央銀行があり、おカネがあり、それが「流れて」「融通されて」金融社会や金融市場を形成する。これが現代社会の金融システムである。殆ど疑う余地も無いような気がする。そこで政策論争が起き、市場価格形成が起こり、企業経営や国民経済が成立するのである。だが、そんな当たり前の社会の中であらためて「金融」を定義しようとすると、途端に名状し難いもどかしさを感じることはないだろうか。金融とは、本来存在しないものを、都合よく誰かが勝手に命名しただけではないのか。
大昔に教わったソシュールの言語学を思い出してみよう。私は社会学の専門家では無いので、聞きかじりだけの知識しかないが、「犬」と言う言葉は、単に人間が勝手に「犬で無いもの」に対して分類を試みた結果に他ならない、とする「概念切り取り」の考え方は、金融にも当てはまっているような気もする。「金融」とは、ある交換行為を交換が絡まない取引と区別するために巧妙に考案された、極めて抽象的な言葉に過ぎないのではないか。例えば、贈与といった一方通行の取引以外の行為を勝手に「金融」と名付けただけに過ぎない、という推論も論理的には成り立つのではないか。
この論で行けば、金融とは「おカネが流れ」たり「おカネを融通」したりすることではなく「おカネを通じて別形態のおカネを含む何かが等価で交換される」行為を現在価値の概念とともに切り取って作られた集合ではないか、という考え方も成り立つ。それは決しておカネを座標の原点に置くものではない。価値は双方向から検証可能で、相対的なものである筈だ。金や銀、或いはドルなどに重心を置いて交換を解釈するという見方は、ある意味では一つの偏見である。それが現代的だと思うのは、単なる現代人の思い上がりかもしれないのである。
◆ 構造主義的金利観
レヴィ・ストロースがサルトルを痛烈に批判したのは、現代西洋主義的価値観が絶対ではないことを、文化人類学的な立場から「構造」を抉り出すことによって実証しえたからである。実存主義は誤りである、として構造主義を主張したのはもう40年以上も前の話であり、その主張は既に我々の一般常識或いは社会通念として埋め込まれている。だが、意外にも金融経済社会の議論においては、依然としてサルトル的な「主体論」(或いはもっと遡ってマルクス的な「歴史法則論」すら!)が大きな影響を保っていることは否めない。
金融市場の「主体」は、実存主義でいう人間ではなくおカネ、つまり貨幣や通貨など信用創造するモノである。とは言っても、おカネがすべて、というホリエモン的発想のことではない。おカネを尺度に物事の交換価値を判断する社会感覚のことである。不動産が値上がりする、とは言っても不動産に対する現金の価格が下落する、とは言わない。両者の相対性は崩れ、おカネが社会の計算尺となっているのである。
当たり前の話だ、と決め付けるのは簡単である。確かにおカネが交換手段、計算手段、貯蓄手段として優れているのだから、おカネを基準に考えるのは当然かもしれないが、それを絶対的で普遍的な観察方法と定義する必然性はどこにあるのか。ユークリッド幾何学は実際的で計算に便利だといっても、現実に空の向こうには非ユークリッド空間が歴然と存在している。
金融という大きな枠組みを見る角度は、必ずしも固定的である必要はないのではないか。昨年のメルマガにも書いたが、通貨やデフレといった「客観的に見えて実は抽象論に過ぎない尺度」に振り回された金融政策が、社会を毀損する危険性はないのだろうか。社会の政策というのは、概念や言葉からもっと自由であるべきではないのだろうか。貨幣或いはパソコン・携帯電話などの人工的商品価値の変動よりも、実態の明らかなモノ(素材、原料、食料、土地)の価値を考慮した政策があってしかるべきではないか。
CPIという数字はそれなりに説得力がある。「物価安定」という目標も明確である。だがその物価とは、ソシュール的に言えばモノの値段の総称であるように見えて、実は我々がモノの価値を表す何かの集合を恣意的に切り出してきたものに過ぎない。統計という技術的手法が、そこに疑問を差し込ませぬように物価の実存性を補強してきたために、我々の眼は撹乱されている。
「物価」に手出しが出来ないと考えがちなのは、それが実態を証明するデータとして絶対的な存在だと思われているからである。だが、その言葉はある「構造」を物価という名前の下に経済社会から抽出した行為の結果であり、実態などどこにもありはしないのである。「あ」という言葉が「いうえおかきくけ。。。」でないことを示すに過ぎず何ら具体的存在を指し示すものでないように、消費者物価というモノも、その言葉を発明する以前には存在などしなかったのだ。
金融という重要な政策を複雑で多様な経済社会の中のたった一つの抽象概念でしか判断できないという社会は、何かしらファッショ的でもあると言えないだろうか。或いは、金融という抽象的事象を扱うには抽象概念で立ち向かうしかないと割り切るべきなのだろうか。我々の見ているこの金融市場を社会が認知しているという論拠は、いったい何処に求めれば良いのだろうか。偉い人が作った現代経済学の教科書にそう書いてあるから、というのは笑えないジョークである。金利決定に関する自由度の欠乏は、金融世界のダイナミズムと再帰性を奪い取り、実態社会を歪める結果を導いていないのだろうか。
◆ 社会学からの視点
筆者が複雑系の概念と方法論を金融市場分析に持ち込んだ1987年当時は、市場価格の動きに隠された一つの力学系モデルを抽出するというのが大きな目的であった。それは昨今拡大しつつある経済物理学の一部に受け継がれている。そのモデルを精緻化する作業を通じて、筆者は価格予測よりも、複雑系という「社会を見る新しい眼力」が金融社会をどう捉えるのかに興味を抱いている。社会学の対象としての金融システムである。
複雑系とは何か、此処で詳細を説明する余裕はない。乱暴に言えば、ランダムではなく力学的な記述が可能な筈なのに予測不可能なシステムのことである。何が何だか解らないという人には、天気がその典型だということを述べるに止めておこう。無秩序ではないのに、予測が出来ないのである。金融市場がまさしくその一例であることに、(均衡論者を除いては)異論をさしはさむ人は少ないだろう。
この複雑系の観察方法の誕生もまた、構造主義に関係している。先に挙げたレヴィ・ストロースは何故近親相姦が禁じられたのかというテーマから驚くべき「社会構造」を抽出して見せた。複雑系もまた、ランダムにしか見えない様々な動きの中に「力学系」が存在することを見事に証明して見せたのである。
構造主義も、複雑系も、どちらもシステムの中に潜む論理を取り出す作業を通じて、従来の視点が絶対的なものでなく、また時間の経過によって進化するものでもないことを示す。構造は、構造として捉える必要があるのだ。複雑系の議論が「複雑さを何かに還元しようとするな」と主張するのも、複雑性が構造として存在していると考えるからである。
「金利」はその経済社会の構造或いは複雑性を司る極めて重要な行司役であり、物価指数という「勝手に作られた概念集合」の中のパラメータではない。金利は、本来は実体経済と密着不可分にある筈なのに、都合よく物価情報に関係する部位を切り取って作られた空間に閉じ込められてしまった。不動産価格やエネルギー市況を取り込めない経済学体系や金融理論は、金利を過小評価しているのである。
金利とは実体経済の体温を測るものでもあるが、「物価集合」に配属されることによって実態経済社会から切り離され、消費者物価という唯一つの抽象概念によって決定される一次関数の解に成り下がってしまったのではないか。従って、最近の日欧金融当局が、物価に拘る米国型にやや距離を置き始めたのは、その呪縛から逃れようとするダイナミズムの表れのように見える。
◆ 自己組織化と自壊懸念
さて、構造主義的アプローチによるもう一つの展開を論じておこう。複雑系の手法は、系の中での動きから見えにくい構造を抽出するという劇的な発見をもたらした一方で、その構造が「自己組織化」していくという不思議な現象も浮き彫りにした。その変化は決してマルクス的な歴史法則ではなく、外部或いは他者に準拠することのない系自体の自律的なメカニズムに支配されている。
これを、金融市場に適用して平たく言えば、BMA第123号に書いた「保守化する金融市場」の結論になる。経済と市場とを結び付けていた一種の政策上・制度上の規律が剥がれ落ち、外部的な自己調整メカニズムを失い、自分自身が準拠すべき「組織」を自らが作り始めるのである。筆者は1990年代に「金融市場とは我々自身である」と主張したが、それはもはや真実ではない。市場は経済社会から自立し、自らの生命を自らの手で維持する組織に変化してしまったのだ。
この自己組織化は、肯定的にも否定的にも捉えることが可能である。市場は自由を獲得したのだ、と評価しうる一方で、市場は秩序を失ったのだ、と批判することも出来る。これは視点の違いや立場の違いにも左右されようが、この二面性は基本的に市場が抱える自己矛盾の象徴であろう。問題は、その先に破局が来るのかどうかという判断・分析だ。
社会学者のルーマンは、市場経済の反対概念とは計画経済ではなく生存維持経済である、と述べている。それはまさに現代の金融市場が向かいつつある方向である。市場が市場らしく振舞うことで、より市場らしからぬ性質を獲得するのである。それは、ルーマンの言う「純粋自己準拠から純粋他者準拠への移行」、つまり自己崩壊・自己放棄につながるのだろうか。
やや抽象論の世界に入り込んでしまったかもしれない。現実的に言えば、為替市場や債券市場、株式市場などはまだ「純粋自己準拠」の世界である。ここで市場は「良い意味で自立」「悪い意味で無秩序」という両面を交差させながら動いている。そこには、一部経済学者が警告するような自己崩壊の気配はまだないように思える。
一方で、「銀行組織」に眼を転じれば、そこには赤信号が点滅している。ルーマン流の社会システム遷移の観察でいけば「他者準拠を伴う自己準拠」が「純粋自己準拠」へ移行して自己組織化が始まり、それが「純粋他者準拠」に近づくにつれて自己崩壊のリスクが高まる、ということになるのだが、為替で言えば固定相場制度に匹敵する護送船団政策という「他者準拠」が消滅し、文字通り「自立」の地位を得た筈の銀行システムは、しかしながら公的資金という別の「他者準拠」に依存する体制が続き、その局面を脱しつつある中でさえ、まだお世辞にも「自己組織化」しているとは言えない。
つまり、金融市場は自己組織化のプロセスで自壊への危険性を高めたり弱めたりしている最中であるが、銀行組織は自己組織化の手前で、自壊への危険性を高めているということが出来る。
表面上銀行システムは、「他者準拠を伴う自己準拠」のレベルに止まっているようにも見えるが、実は彼等は「他者準拠を伴う自己準拠」と「純粋他者準拠」を往来しているに過ぎない。自己組織化プロセスを避けたまま、いままた他者に準拠せざるを得ない方向に先祖返りしているように見受けられるのである。決算という数字の世界に限って言えば好調なようだが、構造主義的、複雑系的アプローチによる診断においては、日本の銀行システムに明るさはまだ見えないままである。