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◆ 思想対立の不毛な世代交代
◆ 元祖アクティビストの闘争
本年、初期雇用契約の全面撤回を巡って起きたフランスの学生デモは全国に広がり、労働団体は3月28日に全面ストライキに入った。1968年の5月革命を髣髴させたこの学生デモは、しかし、当時のように世界に広がることはなかった。ドイツやイタリアに飛び火し、日本では全共闘による安田講堂占拠にも影響を与えたフランスの学生デモは、まさに当時の「思想対立の時代」を象徴するものであった。
大学が就職予備機関になって久しい。私が大学を卒業したのは1979年であるが、その時点では既に大学進学とはほぼ就職のための一過程に組み込まれた儀式となっていた。だがそのほんの10年前の1969年とは、その有名な安田講堂占拠事件のあおりで東大の入学試験が中止になったという大きな歴史を刻んだ年でもある。そのたった10年の間に、日本の思想的対立は風化し、学生も世論も平穏な経済成長の波に飲み込まれていく。
思えば、1980−90年代の経済的グローバル化の時代には、思想の対立が世論を巻き込む形で先鋭化することはなかった。戦前・戦後の混乱期の中でマルクス主義の輸入とともに政治・社会思想で大きな対立を見せ、安保問題にも絡んで激しく対立した保守・革新の二極化は、日本経済の安定と共に徐々に溶解していった。
その中で昨今、外交問題を契機とする日本の右傾化や金融・経済問題への対応で生まれた新自由主義的な運動などが交叉し、言論や政治などの場でそれぞれが勢力争いを激化させている現状は、新たな思想の対立を通じた、日本像への模索の過程とも見える。ライブドアの失墜は、それ自体が大問題なのではなく、そうした思想の対立を国民的な問題に波及させた、という意味で画期的な事件であったのだ。こうしたナショナリズムとグローバリズムの相克、そして弁証法的に生まれ出る「ローカルなグローバリゼーション」の可能性については、別の機会に論じることにしたい。
さて、本誌でも何度も触れたファンドによるエスタブリッシュメント的経営への激しい批判と改革の要求には、学生運動による教授吊し上げのあの時代を重ねて見る人も多いのではないか。私の学生時代は、既にその嵐が吹き去った後であり、同時代感覚はない。だが、全共闘の議長であった山本義隆氏の名前には、強烈な印象がある。
当時、第二の湯川秀樹とまで言われ、素粒子研究の世界的権威に最も近い男と言われた山本氏は、全共闘の指導者の立場を全うすべく、国内留学していた京大の湯川研究室を辞めた。私も高校までは物理の道を志した人間でもあり、そうした人物の行動・思想自体には関心があったが、大学入学当時、彼が率いた全共闘は既に消滅したに近い存在であった。
一昨年、同氏の名前をある科学雑誌で見かけた。みすず書房から「磁力と重力の発見」という三部作を発刊、大仏次郎賞を受賞した、という記事である。同氏は、大学には一切接点を持たず、私の親戚が経営する駿台予備校で物理を教えている。その辺の話は本誌に関係ないので省略するが、フランスの事件を契機にこの山本氏の「復帰」の在り方を思い出し、いったいあの当時に全共闘が目指したものは何だったのか、を推し量らざるを得なくなった。そして、現在のファンドを中心とするアクティビスト達が既存勢力に対して威圧的に改革を求めようとしている姿と全共闘に、何か相似性を思わないではいられなくなっている。
全共闘と投資ファンドを、一緒に語るのは大きな危険が伴う。だが、政治思想と経済思想は本来別々に存在するものではない。経済人が政治を語るのはおかしい、文化人が政治運動を行うのは不自然だ、との考え方は依然として強いが、それは単に政治が停滞して、自民党支配が言わば日本の政治の既成基盤であることのように染み込んでしまったからそう思われているに過ぎない。
◆ 全学連と全共闘の時代
全学連と言うと、角材や鉄パイプを振り回し内ゲバに明け暮れる生産性の乏しい学生運動の印象も強いが、それは活動末期の姿であろう。全日本学生自治会総連合(全学連)が組織と発足したのは戦後間もない1948年である。マルクス主義は既に戦前から先進的教師・学生の間で急速に普及しており、そうした理論をコアに展開された左翼運動には日本共産党が強い影響を与えていた。
戦後を迎えて、GHQ主導による大学改革案や授業料値上げに反対する形で全国の大学を中心にストライキが発生、全学連が組織化されてその後の大学運営批判を主導することになる。だが全学連は、1955年に武装闘争路線を捨てた日本共産党に追随する動きと、飽くまで武装闘争を手段に訴える動きに分裂していく。その後、1960年の安保闘争、1967年の羽田闘争などのプロセスで各派閥は分裂・合流を繰り返し、その都度激しく対立していた。
イデオロギーの対立で内部分裂のやまない全学連とは別に、政治思想の差異にとらわれない自然発生的な学生運動もあった。その最大のものが、山本義隆氏を主導者に仰いだ東大全共闘である。その象徴が1969年の安田講堂占拠事件だった。全共闘には、特にセクトに属さぬ学生も多く参加したと言われる。政治意識の高まりという当時の学生社会の風潮を色濃く反映した運動であった。
私の兄の友人は、安田講堂の天辺で旗を振った人物だ。彼は、全共闘とはマルクス主義だけでなくお祭り気分のラジカリズムも同居していた、とさえ言っていた。安田講堂の屋上で旗を振りたい、というだけの学生もいたのは事実なのだ。実存主義でもリベラリズムでも、兎に角何でもありの思想集団だったという人さえいる。言わば、変革を求める大衆化運動の先駆けのような存在だったかもしれない。全共闘と全学連は、明らかに異なる運動であったのだ。
因みに全学連はいまでも細々とではあるが存在しているらしい。但し、学生の参加は殆どなく、全学連の名前はほとんど有名無実化してしまった。資本主義社会の定着、マルクス主義の惨敗といった時代背景もあろうが、いまでは学生が政治思想を語ることも無くなり、大学の就職準備機関化はいっそう明確化してきた。学生運動は、日本では既に死語になった。
一方、当時主に大学院生や上級生が担った全共闘運動も、1970年代に入って急速に縮小し、彼等自身も自ら批判した「体制社会」に組み込まれていく。そうした「転向」は社会から、そして学生運動の立場から厳しく非難された。ここではその是非を問わない。全共闘世代の目指したもの、それは何だったのか、が問題なのである。「天才」山本義隆氏をして、湯川研究室を捨ててまで求めた変革とはいったい何だったのか。
◆ モダニズムの追求
全共闘の本質は学園紛争であり、共産党との連携で組織化され思想闘争を根底に置いてきた全学連とは一線を画すものである。だが全共闘はモダニズムの追及という意味では全学連の流れも汲んでいる。反体制運動が一つのファッションとなり、マルクス主義が世界の先端思想であった時代、若い世代はモダニズムとして左翼的な社会主義を捉えた、という見方もある。だが次第に反体制だけでは足りなくなり、覆面・ゲバ棒・ヘルメットの三点セットでモダンを象徴化し、大衆化していったのが全共闘でもある。
だがその思想史としては、戦前のリベラリズム糾弾の動きとの関連を見ておく必要がありそうだ。やや話は古くなるが、東京帝大の法学部・経済学部教授陣を徹底的に批判し、自由主義者糾弾に全精力を尽くした蓑田胸喜は、その矛先を天皇機関説の美濃部達吉や、末弘厳太郎、河合栄次郎、田中耕太郎といった帝大教授陣に向けていた。
それは帝大粛清・大学改革への導線となり、大学における自由主義は暗黒時代を迎えることになった。戦後になると進歩主義の教官は復活したが、共産主義者との協調を図る者、共産党とは距離を置く者、といった分裂が生じる。戦後の政治思想界に大きな影響を与えた丸山真男教授は、後者であった。そして安保闘争を契機に、同教授が全学連によって全面的に批判されることになる。これが、理由は必ずしも同じでないにせよ、全共闘にも受け継がれていくことになる。
丸山教授への批判は、安保賛否の問題を議会政治擁護の論理にすり替えたという論拠であった、と竹内洋氏は「丸山真男の時代」(中公新書)で述べている。1960年は岸首相の時代で、日本に不平等であった片務的安保条約の更改の時期にあった。反対運動に対する岸首相の強圧的な対応に、全学連が国会突入するという前代未聞の事件が起こる。こうした内政動乱の時期に、議会主義の危機を訴えた丸山教授は、むしろ全学連の運動を妨害したとして批判されるようになったのである。だが全共闘の山本議長は、やや違う角度から丸山批判を行う。
山本氏らの批判は、主に教授会の無責任構造に向けられていた。その意味では全学連的なイデオロギー闘争ではない。むしろ丸山教授が教授会の無責任に一切発言せず、己の地位を守りつつ歴史的な思想批判に終始しているとして厳しく追求した。丸山教授が日本の病理として指摘した構造が、東大教授会の構造にそのまま現れているにも関わらず何ら発言しようとしない、改革の運動を起こそうともしないという、その「知性主義の偏り」を全共闘は批判した訳である。
モダニズムやリベラリズムを追求し大衆化する全共闘によって、日本の病巣を西洋的視点から抉り出す学術的モダニズムの総本山とでも言うべき、そして自らが大衆の啓蒙を目指してきた学者が糾弾されることになった、というのは一種逆説的でもある。蓑田胸喜が右翼的立場からリベラリズムを糾弾したのに対し、全共闘は、リベラリズムの立場からその「脱落分子」を糾弾したのである(註:筆者は全共闘を支持するものでもないし、丸山氏の教授会への姿勢を養護する立場にも無い)。
丸山教授は、それからまもなく定年に至る前に大学を辞職した。山本議長もまた、研究職を離れて大学教育の場から去っていった。そして山本氏は30年の時を経て、かつて自らが批判した「知性主義の偏り」の中に身を置いている。歴史の皮肉とは片付けられない、何か因縁めいたものを感じざるを得ない。
◆ ファンドの体制批判
金融とは大きく離れた話になってしまった。だが、ほんの数十年のうちに日本の政治・経済思想が変化し、反体制批判の大衆化が進んできたことは、日本の経済構造や企業金融、金融市場の在り方とまったく無縁であるとは思えない。だがここで述べたいのは、そうしたマクロ的現象ではなく、全共闘が「無責任」と大学運営を批判した姿勢およびその運動の大衆化と、村上ファンドが同様に「無責任」と阪神などの既存経営者にまくし立てる株主主義およびそれに声援を送る大衆との間には、ナルシスト的な相似性が見られるように思えることである。
そしてさらに興味深いのは、現在新興勢力の批判の矢面に立たされている大企業の経営層は、まさに全共闘の世代だということだ。36年前、徹底して体制批判した彼等は今や批判される立場に置かれ、数年後に定年を迎える「団塊の世代」と呼ばれる存在になった。これもまた、歴史の皮肉と言うだけでは済まされない転移であろう。
現在その既存勢力の「怠慢」を批判し企業に変革を要求する若い世代が全共闘と大きく異なるのは、彼等が資金力という金融力の一つを保有していることである。彼等は、ゲバ棒の代わりに資金力を持ったのだ。それを武器として、経営資源を浪費して再生産しない経営の怠慢を責める。全共闘が、教授会の封建的権力構造を批判したように、ファンドの面々は企業の保守的経営構造を批判する。
だがその思想的落差は大きい。全共闘は、丸山教授の「日本の思想」を踏み台にして、教授会の構造改革の必要性を訴えた。その理念は、瑣末な運動家によって暴力的に大衆化され矮小化されたことは否めない。それが全共闘の限界でもあった。だが、少なくとも真剣な思想闘争への想いは込められていた。
現代のファンドの面々にそうした思想的拠り所があるか。少なくとも現時点においては、殆ど見えてこない。あるのは「資本は再拡大されなければ資本ではない」という皮相的論理の拡大解釈である。これを一般大衆が支持する。そしてこの脅しに怯える企業がこれまた哲学のない企業防衛論に走り、それを金融機関が後押し、さらにネオリベを信仰するメディアがこれを支持する、といった滑稽な構図が生まれている。
これは新たな時代における、新たな不毛の対立ではないだろうか。当時の全共闘は、丸山教授の思想を超えたと思ったに違いないが、結果的にはどちらも勝者ではなかった。ファンドの面々もまた、既存企業の経営を低レベルだと見下しているようだが、結局どちらも勝者でなく、無駄な闘争に終ったと解釈される日がいずれ来ることになるだろう。
丸山教授は有名な『「である」ことと「する」こと』の中で、現代民主主義社会には属性の価値から機能の価値への転換が求められていると説いた。全共闘がそうであったように、思想に乏しいファンドもまた「する」こと、つまり機能の価値を十分に理解していないのかもしれない。