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◆ オフショアリング時代の経済力
◆ アウトソーシング
インドのアウトソーシング事業が注目され始めたのはそれほど昔の話ではない。筆者が「世界潮流アップデート」というニューズレターの編集を始めたのはもう3年ほど前になるが、その時点で既に主な海外誌は欧米企業によるアウトソースの増加ぶりを度々特集していた。それが金融ビジネスにも波及してきた背景には、大手米銀などによるかなり積極的な海外シフトという決断があった。
米国では、企業が推し進めるコスト節約という意味でのアウトソースの増加に対して雇用の海外流出・喪失といった論陣が張られ、グローバリズム批判を伴う保護主義化の波が襲っている。日本では、海外へのアウトソースと言っても、言葉の問題もあってせいぜいコールセンターを中国に置いて日本語の出来るスタッフを集める程度でしかないが、米国では既に相当の仕事がインドなどに流れており、深刻な社会問題になっているからだ。
JPモルガンチェースは昨年末に、向う2年間にインド国内で約4,500人の大学卒新規採用を行うと発表して、市場を驚かせた。同行は既にアナリスト業務のバックアップ体制をインドに設置するなどアウトソースに関しては最も積極的な金融機関だが、そうした「コスト削減」だけでなく、優秀な人材の獲得にも乗り出したと言えるのが、この4,500人の新規採用であろう。巨大だと言われる同行の日本法人規模がたかだか1,500人程度であることを考えれば、この戦略が如何に大胆なものかが解る。
現在、どれ位の米国内の労働がインドなどの海外に「流出」したのかは公式データが無いので解らないが、100万程度という推定値もある。米労働省の統計では、2005年の総労働人口は約149百万人で雇用者数は141百万人となっている。従って、アウトソースによる雇用喪失は、冷酷に「統計的には1%に満たない数字である」とも言えるし、反対に「失業者の12.5%を占める」とも言える。ただ、最近の雇用統計で新規雇用者数が毎月約20万人程度となっていることを考えれば、アウトソースがそれほど深刻な雇用流出になっているとも思えない。
だがオフショアへのアウトソースは、雇用流出に止まらないインパクトを国々に与えることに留意する必要があろう。それは米国固有の問題ではなく、日本にも共通する問題である。それは、現代的な意味での国際比較優位とは何か、という問いかけに伴う産業構造調整である。日本では「モノ作り」の優位性の議論が伝統的に受け継がれてきた。だが、「モノ作り」の技術はアジアを中心に日々流出しており、日本の得意とする金型技術も21世紀中には中国などに追い抜かれるという見方もある。日本の技術が凌駕されることはない、といった精神論も聞こえるが、それほど説得力もない。
米国・インド間のアウトソース議論は、大袈裟に言えば、産業革命的なコンテクストで捉えても良いくらいの事象なのかもしれない。以下、プリンストン大学のアラン・ブラインダー教授による論考を参考にしながら、この問題を日本の経済競争力と絡めながら、考えてみよう。
◆ 産業革命と労働の変化
前CEA委員長のマンキュー教授は、オフショアへのアウトソースを「アダム・スミス以来、経済学者が指摘してきた利益現象の一つに過ぎない」と述べて米国政治家の総スカンを食らった。アウトソースを国際貿易の一形態と見做す考え方は、雇用の喪失と考える政治家には不評なのである。これは日本でも同じことだろう。国際貿易による利益は、労働力調整を伴ってこそ達成された過去の事実を、恐らく世界中の政治家は(意図的に)忘れているのだ。
アダム・スミスの「諸国民の冨」は、英国の産業革命のさなかに出版されている。18世紀後半から19世紀前半にかけて、産業革命の結果として、欧州や米国などの産業国では農民が工場へ大量に移動し始めた。同時に、国家間での比較優位競争も始まった。繊維製品の攻防はその典型であろう。インドの繊維産業は英国の綿工業に敗北し、英国は米国の圧倒的な生産力の前に屈し、そしていま米国は中国の安価な製造力の前になす術が無い、という歴史的スケールのパノラマの一場面をいま我々は見ているのである。
米国はそもそも農業国であった。1810年当時、労働人口の84%が農業に従事しており、製造業には3%程度しか携わっていなかったが、これが1960年には農業人口が8%にまで急低下、現在では2%にも満たない。現在の米国の経済力は、比較優位に基づきながら、かなり弾力的な労働調整によって支えられているのである。
そして第二の産業革命にも言及しておく必要があろう。いわゆる製造業からサービス業への転換である。今や米国サービス業で働く割合は6人に5人と言われるが、製造業シェアの比較的高い日本でも、サービス業への就業シェアは70%近くにまで上昇している。そのサービス業シフトの中でのさらなる変化として、現在我々が直面しているのが情報産業化という第三次産業革命だ、とブラインダー教授は主張している。
世界規模の情報ネットワークの拡大によって、取引可能なサービスが飛躍的に増大する。この第三次産業革命も、前回、前々回の産業革命時と同様に、先進国に労働調整を引き起こす。第一次は農業から製造業へ、第二次は製造業からサービス業へと労働シフトが起こった。さて第三次の今回では、何が起きるのだろうか。
教授の結論は、サービス業の中の「非対人サービス」がオフショアへのアウトソースによって減少する、という考えである。対人サービスは、国内に止まらざるを得ないが、非対人サービスは、簡単にネットワークに載せることが可能だからだ。これは考えようによっては、恐ろしいほどの産業構造転換の可能性を示唆するものである。やや個人的な思いで恐縮だが、子供を持つ親の立場からしても看過出来ぬ議論である。
◆ 箱詰め取引とネット取引
比較優位の議論に戻ってみよう。従来の国際貿易は、箱詰めして輸送できるものであれば、何でも取引可能であった。繊維だろうが阿片だろうが陶器だろうが、何でも構わない。箱に詰められなくても、自動車のように輸送さえ出来れば交易可能である。比較優位の議論における貿易対象の境界線は、こうした物理的な尺度で定義されていた。
だが高度情報化時代の到来で、新しい座標軸が加わった。取引は「物理的輸送の可否」だけではなく「パケット輸送による可否」によっても判断されるようになったのである。そして後者による交易が、指数関数的に増加している。まさに比較優位の理論が、電子取引においても試されようとしているのであり、これがオフショアへのアウトソースを読み解く重要な鍵になると教授は述べる。
それでは、どういうサービス業が淘汰されるのか。人々は教育・スキルのレベルが高ければ生き残れると考えがちだが、それは「パケット輸送」における比較優位とは関係無さそうだ。勉強さえしていれば、或いは訓練さえ受けていれば報われるというのは間違いかもしれぬ。雇用の将来性を決めるのが、電子取引によって仕事を移転できるかどうかであれば、仕事の存在はそれ自体が高度かどうかとは関係ないからだ。
教授は、むしろ製造業よりもサービス業の方が、今後のアウトソースで海外との脅威に晒される機会が多くなると述べている。そして人と人との接触が不可欠なサービス業の例としてレストランのウェイター、健康診断を行う医師、警察官などを挙げながら、先進国に残る労働はこうした「対人サービス」であろうと教授は結論付けている。反対に、機械的な作業を行うだけの秘書やテレフィンサービス係などは、箱詰めされる商品と同じである。
サービス業と言っても幅が広い。米国で多い順に挙げれば、医療、教育、レジャー、飲食、金融、卸売り、交通、情報、電気・ガス、といったセクターだが、これらを対人・非対人に分類するのは容易でない。医療の中でも既に放射線治療のようにアウトソースが始まった分野もある。教育も小中あたりは対人サービスが必要だが、大学あたりはもう非対人サービスで十分かもしれない。卸売りは、対人が不可欠な小売と違ってアウトソースされやすいかもしれない。いま私がやっている情報産業など、アウトソース候補の最右翼である。
さて問題は金融だ。ブラインダー教授は、現在の米国は金融に関してはオフショア化というよりも、海外へのサービス展開という意味で逆にオンショア化が進んでいると分析する。だが前述したJPモルガン・チェースの例のように、新しい比較優位の価値観でオフショアへのアウトソースを進めていく金融機関は増えそうだ。特に英語でビジネスが共有できるインドが、米国の金融経営を大きく変貌させる可能性は高い。
◆ 第三次産業革命後の日本経済
以上はブラインダー教授による米国診断であるが、同教授は労働市場の相対的柔軟性により、米国は欧州や日本よりもこの産業転換に柔軟に適応できそうだと述べている。だがそれを成就するためにも、世界に先駆けて、子供達をどのように教育すべきかを再検討する必要があると、警告している。
現在の教育体制をどんなに強化しても10年後、20年後のサービス産業の国際間競争には勝てないかもしれない。それは「対人」「非対人」のサービスの境界線と、「高い教育・スキルを要求される雇用」と「低い教育・スキルで十分な雇用」との境界線が重ならないからである。これは重大な問題提起であり、米国内の議論に過ぎないと放置できるものではない。
確かに、ブラインダー教授の議論は、英語を母国語とする米国と英語圏であるインドという構造的に接近した経済関係を前提にした話であり、日本の置かれた状況とははまるで違う。現在の日本企業によるアウトソースと言えば、沖縄にコールセンターを作るように、未だにコスト削減の域を出ない。従って、ブラインダー教授が指摘するようなアウトソース・シフトは日本では起こらないかもしれない。だが、それこそが日本の弱点になりうる。
つまりブラインダー教授の指摘に欠けているのは、「パケット輸送」は共通言語が必要だという点だ。米国にしてみれば当たり前のことだが、日本ではそうは行かぬ。日本語では「パケット輸送」の海外へのアウトソースは不可能だからだ。かくして「パケット輸送」は英語圏の経済力を益々強化させる可能性がある。一方で日本は、海外のアウトソースどころか、少子化で日本語族の絶対数が減り、「パケット輸送」では大きく劣後することになるだろう。
オフショア・アウトソースを国際交易の一つとして考えれば、これが第三次産業革命における経済力の差を生む源泉となる。箱詰め取引における言語の意味と、電子取引における言語の意味は、まるで違うことに留意すべきだろう。前者が書類上の静的コミュニケーションであるのに対して、後者は動的コミュニケーションを含む。むしろそれが比較優位のポイントともなる。
そこから先の結論への推論を急ぐことは止めよう。だが最近の識者が放つ「日本回帰」「国語重視」「武士道精神」「国家の品格」といった復古的・回顧主義的なナショナリズムの匂いのする論調に関しては、頭から否定するつもりはないものの、日本経済が第三次産業革命に乗り遅れて国際競争力を失っていく一つの危ない方向性を指しているような気がしてならない。