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◆ 消費社会の幻想

◆ GDPと消費社会

市場ビジネスに携わる人にとって、GDPという言葉はある意味で神聖不可侵の概念である。GDPが増加するということは即ち経済成長を意味し、株価は上昇するだろうが、金融引締めが必要なほどの数字になれば債券価格は下落する。GDPは数値や水準変化こそが重要なのであり、その内容に立ち入ることは通常の金融市場では要求されない。

但し、最近のように日米欧の先進国のGDPではなく、中国やインドのGDPが話題になり始めると、そうもいかなくなる。先進国のGDPでは個人消費の占める割合が多い(米国は70%が個人消費)が、新興国のGDPはまだ設備投資などが主役であり個人消費の割合は比較的小さい(中国では40%程度)。

従って同じGDPとは言え、その伸びの姿はかなり異なっている。昨今の米国の成長は明らかに個人消費主導によるものであり、中国の劇的な成長は不動産プロジェクトやエネルギー生産などのインフラ整備に伴う設備投資(総固定資本形成)であった。だが、中国もいずれ個人消費が大きなシェアを占めるようになる。それは時間の問題だ。

これは経済構造の変化というよりも社会の変貌である。消費社会への転移といっても良いだろう。先進国が辿ってきたそのプロセスを、新興国が追随する。だが消費社会とはいったい何だろうか。GDPに占める個人消費のシェアが高まるのが消費社会だという説明は、いささか無防備である。例えば、過剰消費と揶揄されることの多い米国と、比較的倹約指向の強い日本やドイツとを比べれば、その「消費社会ぶり」はかなり様子が違う。

日本経済は、外需依存が強く内需が弱いから消費支出を増やせ、と海外から責められてきた。ある意味では余計なお世話である。現在、中国も米国から似たような圧力を受けており、中国も不均衡解消の為に人民元政策を攻撃されるのを避けようとして、内需拡大による問題解決を表明するようになった。但し、現在の中国における低水準の消費活動を考えれば、消費拡大は整合的であるとも言える。少なくとも、現在の日本がGDPの更なる成長を確保するために「内需拡大」などと言い始めるよりは、はるかに論理的であろう。

消費社会は、極めて現代的なシステムである。大袈裟に言えば、ルネッサンス、古典主義、近代と流れる歴史の枠組みが現代にジャンプしていく過程での、社会構造の変革でもある。消費が当たり前の現代は特異な時代である。消費が社会の中心に置かれる時代など、過去には無かったからだ。

従って中国などの新興国は、先進国が刻んだ歴史の足跡を辿りながらも、同時に現代の米国が抱える過剰消費のような問題をどのように回避していくか、といった舵取りを要求されていく。中国の消費社会への転移は、何をもたらすのだろうか。中国に消費社会は定着するのだろうか。そしてそれは、世界経済や金融市場に、どんな影響をもたらすのだろうか。

◆ T型フォードの盛衰

米国の消費社会への転移を示す一つの事例は、フォードによる「T型」自動車(Ford Model T)の大量生産である。1896年にガソリン自動車を開発したヘンリー・フォード氏は、1903年にフォード社を設立し、モデルAを出発点にして様々な改良モデルを生み出していく。そして1907年にはその後世界市場を制覇する「モデルT(T型フォード)」を開発することになる。翌年から市販されたT型フォードは、大量生産によって可能になったその魅力的な価格に支えられて、爆発的なヒット商品となった。大正時代に日本で初めて導入されたタクシーも、このT型フォードであった。

フォードの技術的な成功は、フォードシステムと呼ばれる流れ作業の構築にあったが、それを可能にしたのは規格化された互換性の高い部品の導入だ。部品互換の実現は、大量生産の大前提であった。

だが発売以降ほぼ20年間で1500万台を売ったそのT型フォードも、生産停止に追い込まれる日が来る。そこには自動車に特有の、様々な技術的な理由があったことだろう。だが社会学者は、独自の観点でその衰退の理由を分析していく。一つの考え方は、T型フォードの成功は、T型フォードで満足できない欲望を市場に生み出してしまった、という見方である。

T型フォードは市場における「消費欲望」に火を付けた。だが、その欲望の効用関数は次第に移動し始め、T型フォードに対する消費欲望自体を飽和させるというベクトルを描き出す。欲望の形態が変化したのである。つまり、T型フォードの大量生産は、T型フォードはもう欲しくないという結果を生んでしまったのだ。

T型フォードのような大量生産の社会の商品は、必ずしも消費社会の商品ではなかった、というのが、消費社会の視座から現代社会を読み解くボードリヤールの見方である。フォードの成功は、社会学的に見れば従来の「贅沢品」から象徴性を除去し、安価で広く提供することによってもたらされたという外的な大衆文化の体現であり、他社と比べた場合の差異はフォード自身が作り出したものではない。

消費社会とは、商品を消費するにおいて、その商品がもつ他の商品との「恣意的な差異」を消費する社会である。T型フォードは、同類の自動車が1500ドルする時に、850ドルで売り出された。当時の消費社会はその差額の750ドルを歓迎したのだが、それは自動車業界の外側にある既成の価値指向や欲望の型に依存した成功であり、フォードが消費社会で成功したと言えるものではない。消費社会に応えたもの、それはフォードをあっさりと抜き去ったGMであった。

◆ GMの成功物語

現在、経営危機のさなかにあるGMであるが、今なお世界最大の自動車メーカーの金看板は健在である。創設者のウィリアム・デュラント氏は、フォードと違って多種多彩な自動車を生産する道を選んだ。工業デザイナーを副社長に抜擢してデザイン力を前面に押し出したり、或いは割賦信用制度を通じて販売戦略を多様化させたりして、画期的な経営方針でT型フォードに満足しなくなった消費者の心を掴んでいった。

1927年にT型フォードが生産中止を決定したのは、GMによる「恣意的な差異」を作り出す戦略に敗れたからだと内田隆三教授は述べている。それは、デザインや色彩といった付加価値要素を通じてモデルチェンジによって商品の多様化をはかる「産業システムが自ら合成し作り出す恣意的な差異」であり、その差異を消費する「消費社会」がまさに米国に生まれようとしていた時期に符合したものであった。

内田教授は、このプロセスを「欲望の位相論的な変化」であると分析している。我々がいま目にしている社会は、まさに欲望が変質してしまった消費社会であるが、現在は生産力の飛躍的な向上によってその欲望を生産し続けなければこのシステムが持ちこたえられなくなっている。その意味では、消費社会は、自己矛盾を抱えるシステムであるということも出来るだろう。

こうして消費社会の到来という風向きの変化をいち早く察知したGMも、現在ではハイブリッド車のトヨタに押されて、以前のフォードが辿った道に向かい始めている。T型フォードは、既存の欲望という産業の外側にある価値観に依存した単純な大量消費時代を象徴したものだが、GMはそれを欲望の変化という産業の内側での勝負に挑むことによって消費社会をリードしていった。

現在トヨタがGMを追い越そうとしているのは、石油問題という外側の価値観に大きく依存したものと言えるかもしれない。とするならば、トヨタの繁栄も「恣意的な差異」を生み出す消費社会での成功とは言いがたい。ハイブリッドといった技術問題はいずれ業界標準となり、そこから恣意的な差異が生まれ、消費社会の真の勝者が誕生するのかもしれない。それはトヨタかもしれないし、韓国やドイツのメーカーかもしれない。或いは、美術・色彩といった斬新な印象で一度は差異の価値化に成功したGMが、もう一度成功する可能性もゼロではないだろう。

◆ システムの自己崩壊

現代の消費社会は、拡大する生産力が従来の購買力や消費意欲を大きく上回る状態にあるように見える。世代によって感覚は異なるだろうが、私など最近余計なものを買わされているという生活実感が消えることがない。必要なものに不要なものが付着して、余計な支出を強いられるというIT業界や電機業界などの「消費テロ」などはその例である。

消費社会への移行は、欲望そのものの変化であった。生産力が、その欲望を再生産させることによって維持され、そして再び拡大していくのが現代の消費社会のシステム構造である。産業が自分自身に依存する、即ち自己に準拠するシステムの一部となる時、そこには大きな危険が生まれる。産業は、外部要因の不確実性ではなく、内部に組み込まれた力学に己の安全性と合理性を求めるようになるからだ。

現代社会学は、こうしたシステムの中では、欲望が急縮小することで発生する破局のポテンシャルが高まっている、と警告する。さらに次のレベルの問題として明確になるのは、こうしたシステムは成長に関する固有の目的を設定することが出来ない、という虚脱感である。目的のないままに成長を続ける状態では、システム内の全面的な自己肯定が実現され、「主観的には正気なシステムが客観的な狂気を生み出して」(内田教授)いく。

米国の異様な消費社会が、そうした過程のどのあたりに位置するのか、私には正確な観察をする力がないが、そのシステムが自己崩壊する可能性も高まっているのは事実であろう。日本やドイツなどの先進国ですら、その軌跡に近づいているように見える。中国が消費社会に達するのはまだ遠い先の話であるが、その前に米国のシステム崩壊が明らかになれば、彼等の思考経路にも大きな影響を与えることは必至である。金融市場におけるGDPの見方にも、いずれ修正を余儀なくされる日が来るのかもしれない。

2006年08月25日(第129号)