HOME > 2006 |
◆ 投資立国への道のり
◆ 必要十分条件
ひところ、「金融立国」という言葉が金融界を席巻したことがあった。日本の金融資産の蓄積や金融市場の拡大など、「ものづくり」の産業だけでなく金融を一つの先端産業として育成していこうという発想である。米国のニューヨーク、欧州のロンドンを結ぶアジアの金融センターとして東京市場を位置づけようとする考え方も反映されていた。
確かに地理的に言えば、東京は24時間市場の繋ぎとして最高の場所にあり、また日本だけでなく欧米金融機関のアジア拠点も集中するなど、金融センターとして最低限の条件は揃っていた。為替市場は充実しており、株式市場も世界第二位の時価総額を誇り、国債市場は世界最大の財政赤字国として債券の発行量はどこにも負けぬ規模であった。
だが結果的に見て、日本が金融立国としての地位を獲得できたか、東京市場が世界を繋ぐ第三の金融センターとして発展したか、といえば大きな疑問符がつく。確かに存在感としての日本の金融、東京の金融市場は、アジア地域では群を抜いている。だが、それが欧米と一体感のある金融センターという意味では、香港やシンガポールを挙げる人も多いだろう。勿論、将来的にはそこに上海市場が参入してくるだろう。
但し、金融立国という言葉が具体的に何を指すかを定義しないと、誤解を招く恐れがある。従来の貿易立国の概念と対比させれば、金融立国とは金融ビジネスで富を蓄積できるような国になる、ということだ。例えば金融庁が示した「金融サービス立国」像にあるように、多様で良質な金融商品提供やITの戦略的活用による競争力強化、国際的地位の向上などを通じて「活力ある金融システム」を創造すること、はその定義の一つである。
確かにそうした項目は重要だが、この指針は金融立国の「必要条件」を列挙しただけに過ぎないような印象もある。金融立国となる為の「十分条件」は、豊かな市場機能が維持され、内外に開かれた市場を擁することだ。その意味で、東京市場はニューヨーク市場や英国のシティなどに比べて大きく見劣りがしたままである。
言葉の問題もあるが、何よりも東京市場が自己完結的な市場であることが大きい。債券市場に代表されるように、公的な資金不足と民間の貯蓄とをバランスするだけの市場という色彩も強い。またその中で日本独自の市場論理も働きやすい。国を挙げて民間企業を再生させる、といった発想はグローバルには通用しない。
◆ 投資立国とは
こうした金融立国の考え方に代わって、投資立国という考え方も出てきた。現代の日本の置かれた経済・金融の環境を考えると、貿易立国の次のコンセプトは、金融立国ではなく投資立国のイメージの方がより具体的で現実的だ。投資立国とは海外への有価証券投資だけでなく、直接投資も含めた包括的な金融取引による富の蓄積を意味する。と言えば、国を挙げてのマネー・ゲームかと眉をひそめる人もいるだろう。だが資本が蓄積して経済が成熟してくれば、資本が国内から溢れるように海外へ向かうのは当然のことである。
1998年以降の銀行危機を発端とする金融危機で日本中が暗いムードに覆われていた時、一部にキャピタル・フライトといった海外への資本逃避の必要性が喧伝されたことがあった。日本にお金を持っていても危ないから、海外に投資をした方が良い、と煽るような論調も目立った。
それはリスクヘッジという意味もあったかもしれないが、1,500兆円もの個人金融資産を持つ国の「資本利用法」を考える上ではあまりに消極的な思考であったと言えよう。適正な配分として、日本をベースにしながらどのように海外に投資すればよいのかを考えるのが投資立国への第一ステップである。日本から逃げるのではなく、日本以外の成長の潜在性を探しに行くのである。
日本国内に蓄積された資本が有効活用されないのは、日本の問題だけではなく、世界の問題でもある。むしろ日本国内で使い切れない貯蓄は、積極的に海外の経済発展のために利用されるべきであろう。従って、日本の貯蓄が海外に流れ始めたと言っても、それが米国の経常赤字のファイナンスに使われているだけでは、投資立国としてグローバルな役割を果たしているとは言えない。
また直接投資に関しても、経済産業省の「通商白書」はアジア諸国を対象とした企業買収を主題に挙げているが、アジアに限定する必要もないだろう。グローバルな時代に企業が資本提携したり買収したりする相手が近隣諸国であるとは限らない。投資立国の先達である英国が投資対象を選ぶ際に、近隣の欧州諸国に優先度を置いたわけではない。
◆ 注目される所得黒字
さて貿易立国と投資立国というイメージで日本経済の姿を思い浮かべるには、やはり数字の助けが必要になる。2005年の国際収支は、原油高などで貿易黒字が前年比27.1%減の9兆5888億円となる一方、所得収支の黒字額が前年度比30.3%増の12兆5634億円に拡大して、初めて貿易黒字を逆転した。
所得収支とは、日本の企業や個人が海外から受け取った債券利子や株式配当額などから、海外に支払った額を差し引いたネットの数字であり、2004年以降連続で最高値を記録している。対外保有資産が着実に増えていることの証でもあり、また日本企業の海外子会社における業績が良好で、配当受け取りが増えていることも一因だ。
勿論、この1年間の統計を以って結論付けるのは危険かもしれない。貿易黒字も再び増加する可能性もある。但し、一度弾みがつき始めた所得黒字が急減することはないだろう。恐らく、今後も日本の所得黒字はハイペースで増加し、貿易黒字との差を広げていくのではないかと考えられる。まさに投資立国としての姿が浮かび上がる。
そうなると、従来日本の経済力を測っていた数字も気になる。現在、経済力といえば、GDP(国内総生産)であるが、GDPが従来の国家指標であったGNP(国民総生産)に取って代わったのは1994年の経済白書からである。海外資本の日本進出など国際化に伴う措置であったが、このGDPは今後の投資立国の姿を正しく描き続けられるのだろうか。
一昔前まで経済力の代名詞であったGNPという単語は現在では消えてGNI (Gross National Income)、つまり国民総所得という表現に置き換えられている。GDPとの差はそれほど大きくないと言われたのは1990年代の話で、今ではGNIはGDPを約10兆円上回っている。GNIで見れば、日本の金融力を加味した経済力はもう少し高く評価されるかもしれない。
この差は、海外への投資の増加で益々拡大する筈だ。因みに欧州でもGDPではなくGNIの方が正確に経済力を反映するとの考え方が生まれており、英国のエコノミスト誌などはさらに進んでGNIから「社会的減価償却」つまり社会資本の償却を控除したネットベースのNNI(Net National Income)を経済尺度の指標とすべきだと提案したりしている。
◆ GNIの復活を
GDPとGNP(或いはGNI)は何が違うか、簡単におさらいしておこう。GDP(国内総生産)とは、読んで字の如く、日本という国の中で一定期間に生産された財やサービスの付加価値の合計である。現在、そのGDPの伸び率のことを一般的に経済成長率と呼んでいる。日本の名目GDPは約500兆円であり、米国に次いで世界第二位であることは良く知られているが、世界全体の経済に占める割合でも日本は約10%を占めている。
従来、経済活動を図る際には「日本国民による生産」という概念が原点に置かれ、海外に居住する日本人が生産する付加価値を加味したGNP(国民総生産)がその指標に用いられてきた。だが海外では領土内(国内)で生産される付加価値をその国の経済力として定義するのが一般的となり、日本もGNPからGDPに変更した経緯がある。GDPとGNPの違いは、ひとことで言えば「GDPに海外からのネット受取を加えたものがGNP」ということになる。
これまでGDPとGNPの開きはそれほど大きくなかったが、前述のように対外資産からの所得が増加してくると、その開きはどんどん拡大していく。
内閣府は既にGNPをGNIとして表記している。上記で見れば、GDPとGNIとの差は、1996年度の約6兆円から2004年度には約10兆円に拡大しているが、所得収支黒字の増加ペースを考慮すれば、2005年度以降はさらにこの差が拡大していると思われる。そうなると、投資立国としての姿を反映させるためには、GDPではなくGNIの方がより実態に近い数字であると言えよう。
ただ日本社会はまだ「ものづくり」に拘る傾向が強く、マネーが絡んだ稼ぎは「不労所得」といった蔑みの言葉で形容する人も多い。政府がGDPに固執するのも、そうした社会通念を意識しているからかもしれない。だがどんな成熟国も、資本取引による利益の割合が大きくなっていくのである。それが「投資立国」の姿であり、日本がそのプロセスの真っ只中にあることは、もはや誰も否定できない事実であろう。