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◆ 経済学的思考の限界

◆ 経済学的思考

沖縄出張の飛行機の中で「経済学的思考のセンス」(大竹文雄:中公新書)を読む。経済学者が「イイ男は既に結婚してしまっているか」「女性は何故背の高い男性を好むのか」といったくだけた話題を経済学的に解説するという一般読者狙いの軽い本だが、正直言えば、どこが経済学的なのかよく解らぬところもある。

例えば、一昔前に流行った「三高」(旧制高校ではなく高身長・高学歴・高所得)という女性の好みに関し、高学歴と高所得の関係の密接さはある程度推論可能であり、それらが生活の安定要因として大きな要素を持つことは解り易い。だがなぜ高身長なのかを説明するのは難しい。

同書はそれを「経済学的に思考する」。高身長は、「格好いい」という見かけだけの要素かもしれないし、生物的本能をくすぐるものかもしれない。だが経済学的には、高身長が高所得に結びつく可能性を考えてみる必要があると著者は言う。そして身長と賃金の関係を計量経済学的な分析処理を用いた研究を挙げ、米国や英国での両者の因果関係を紹介する。日本でも、英米ほどではないが、身長プレミアムが存在するらしい。

その背景として、身長の高い人は体育会系クラブに参加する可能性が高く、そこでの社会活動によってリーダーシップや組織運営のノウハウを学ぶ機会が高まるのではないか、と分析する。従って、労働市場で成功するのは高身長のケースが多くなるという訳である。こういう分析が経済学的思考だと著者は言う。

そう言われればそうかもしれぬ。確かに、就職戦線では体育会系の卒業生は有利である。野球部やアイスホッケー部などの体育会に所属していた私の友人の多くは先輩の「引き」で軽々と就職を決めていった。

だが女性は本当にそこまで深く洞察して、高身長の男性への選好度を強めているのだろうか。統計的な誤謬のリスクを考えないで、或いは断片的な社会情報だけに依存して、そんなに大胆な推論をすることが本当に経済学的思考なのだろうか。著者もやや不安に思ったか、文末で身長や学歴などの個人属性で賃金を説明できるのは20%程度であって、殆どは「観察不能な」要因によるものであると述べている。

実際に、時代は「三高」から「三低」(低姿勢・低依存・低リスク)へとシフトしてしまったそうだ。低姿勢とは文字通り「何でも言うことを聞く男」、低依存とは「相手を束縛しない男」、そして低リスクとは「安定した職業を持つ男」である。高身長がイイ男の条件と持て囃された時代は終わったのだろうか。「経済学的な思考」は、こうした好みの変遷をどう分析しうるのか、むしろそちらの方を聞いてみたい気もする。

◆ 金融市場の謎解き

この本で論じられる様々な思考にはかなり疑問符が付くが、中には面白い指摘もある。現在の公的年金や企業年金はねずみ講と同じ構造であり、特に公的年金未納という形で若者が逆襲するのはやむを得ないが、年功序列賃金をそれと同列に論じるべきではない、という考察は確かに経済学的な論理から推論されるものだ。

だが経済学的思考とは、どこまで世界を説明できるのだろう。10年ほど前に「数学で世界は解明できるか」という本を読んだ。それは数学の古典的な枠組みでは世界の説明は不可能であり、数学が行き着いた計算の世界でも複雑系の存在によって論理から予測不能性が生まれるという、従来の通念からすれば矛盾したような結論に至ってしまう。

これが示唆するものは、経済学的思考にも当てはまるような気もする。例えば、こうした「経済学的思考」は金融問題に対してどの程度説明が可能なのだろうか。金融が広義の経済学の一範疇に属するものであるとすれば、経済学的思考は、日本の金融市場や経営、システムなどにおける歪みや遅れを説明できる筈であろう。

日本の金融においてプライシング概念の浸透が大きく遅れた理由や、金融資産の流動化が未だに進まない(というよりも逆行)している背景について、「経済学的な思考」はどのように解説してくれるだろうか。以下、筆者は経済学者ではないが、どこかの大学の先生になって生徒を教えるような気分で、それを説明してみよう。

まずプライシングの問題。リスク・プレミアムがなぜ金融取引に反映されてこなかったのかは、既に多くの識者が論じている。金融制度的に言えば、産業振興政策および金融機関育成政策のために、日本では規制金利が敷かれていた。金利は事実上大蔵省が決定し、それ連動する金融債金利に0.9%を自動的に上乗せするプライムレートがすべてであった。「四畳半金利」の中で、殆どすべての取引が封じ込められたのである。

次に与信管理の単純な一面性である。貸金には担保が必要で、それには不動産がベストであった。リスク管理は簡単な方が良い。日本の不動産は、事業そのものよりも信頼性が厚かった。従って信用リスクとは不動産価値であり、それによって融資額面を十分にカバーできるのなら、リスク・プレミアムなど必要ない。

二つともに「経済学的に」もっともらしい説明であるが、それだけではないようにも思える。高い金利を取ることに対する倫理的な反発は、最近の貸金業改正案への抵抗を見れば良く解る。デフォルトを許さない社会的潮流も、リスク・プレミアムの必要性を排除するものである。会社が潰れない、潰さないのなら、はじめから信用リスクなど無いに等しいからである。格差社会が過剰に問題視され、成果主義や賃金プレミアムまで否定されようとしている現在の風土を見れば、いつの日か、プライシングなど社会悪だという声も聞こえてきそうだ。

◆ 資本主義の入り口

私自身は、日本金融におけるプライシング欠如は、戦後の産業復興という大きな時代の流れを無視しては語れないと思っている。高度成長は、企業集団による結束なくては成就できなかったように思う。その社会観からは、個別企業に対するリスク・プレミアム議論が出てくる筈も無い。制度金利や不動産担保はむしろ枝葉の問題である。プライシングとは、成熟した資本主義において自由主義的価値観が昇華する局面で市民権を持つものなのだ。日本はまだその入り口に(それもやや半身の姿勢で)立ったに過ぎない。

流動化も同じような論理で考えることが出来よう。以前、「余るものが生む流動化」というテーマで日本の流動化市場が何故発展しないかを、日本的な均衡論指向という切り口で一つの推論を試みたが、ここにも社会的背景を論じてみることは可能だ。

例えば、日本の契約に対する潔癖な商慣習を挙げてみよう。「3年間お金を貸す」という行為は「3年後にお金を返して貰う」という意味とほぼ同意である。資産を流動化するという意味は、その両者が断絶されるということである。これはA=Bであるという一種の社会通念を殺すことでもあり、かなりのストレスを生む。

つまり「3年間お金を貸す」とは「3年間誰かがお金を貸していればいい」と解釈される必要があるのだ。そして「貸す」という当事者意識が消えて、現在価値概念だけが残ることにもなる。これは、ある意味で革命的な意識変革を必要とする行為である。

日本では債券ですら「3年間その証券で運用する」という行為が「3年後に償還される」という意味と同義と解釈されたが故に、中途売却という考え方になかなか馴染めなかったのではないか。流動性というのは、そこにコペルニクス的転回を必要とするものだ。そしてそれは誰かから命令されて出来るものでなく、社会思想の変遷の中で自然に生まれるものだろう。残念ながら、日本ではその芽を1990年代に金融行政が摘んでしまった。その機会は、次の不良債権時代にまで持ち越されることになるだろう。

◆ BISとは経済学的か

最近、銀行の人とほとんど話をする機会が無いので良く解らないが、どうもBISの新たな規制に関しては、当初の目論見から大きく軌道が外れつつあるという印象を受けている。FT紙だったか、8月頃にCitigroup、JP Morgan、Wachoviaなど四つの大手米銀がFRBに対して「BaselUの先進的手法ではなく単純手法を取ることも検討する」といった脅しのような報告をしていた。

先進的手法により必要資本が減額されるというのがBaselUの当初の趣旨だったにもかかわらず、どうもそうではなさそうだ、との認識が広まっているのだろうか。米国内にはまさに経済学的思考の凝縮のようなBaselUが大手を有利にするという意味で「差別的だ」との声が高まっていた。それが政界にも広がり、米国金融当局が示したローカル・ルールは大手金融機関に不味なものとなった。

業界の内情を知らぬままこれ以上書くことは危険なので避けるが、自己資本比率という金融システムの「基礎中の基礎」のような部分でさえ、経済学的な思考は行き詰まりを見せているようにも見える。

勿論、8%とか4%とかいう数字に経済的合理性はなく、既にBIS規制は論理破綻していたのだという見方も成立つが、そこまで責めずとも、1987年以来のBIS規制の姿勢そのものが教条的であり、政治思想或いは社会思想的な配慮が欠けていたことは否めないだろう。一部には、日本の金融当局のBIS解釈が世界で最も教条的であるという声も出ているが、それが正しいとすれば、日本の金融が如何に社会から孤立しているかを示す一つの証左でもあると言えよう。

金融は、しきりに「政策当局は市場との対話が必要だ」と言う。だが金融には社会との対話が必要であることには鈍感だ。それを修正するには、金融論における「経済学的思考」の限界を認め、政治と経済、そして社会における思想史の観点から金融を分解してみる作業が必要なのではないかと考えている。

2006年10月06日(第132号)