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◆「現代マネー6つの視点」

今般、筑摩書房より「世界がわかる現代マネーの6つの視点」(ちくま新書)を上梓致しました。本書はほとんどが書き下ろしですが、一部「マネタリー・アフェアーズ」及び「世界潮流アップデート」にて掲載した小論を修正したものも含まれています。同社より承諾を頂きましたので、新刊の紹介を兼ねて「まえがき」を掲載させて頂きます。

<まえがき>

金融市場では、常に何らかの価格が変動している。株価も、為替も、また国債などの利回りも刻一刻と動き、東京市場が終れば欧州へ、そして米国へと受け継がれてまた東京時間にその変動空間が舞い戻ってくる。

日々の金融市場の変動に目を凝らすことは重要だが、そればかりに気をとられていると、金融システムという地殻が大きく動いていることに気付かなくなることもある。あたかもバブル期のユーフォリアで日本中が浮かれていた間に深刻な「金融病」が全国に蔓延していったように、或いは金利差を信じてドル買い・円売りを進めるうちに米国の不均衡問題が危険水域にまで達してきたように、日々の市場変動にばかり注目していると、マクロな金融基盤への問題意識を薄めてしまうことがある。

また、目先の値動きに眼を奪われてどのような問題が積み残されてしまったのかをすっかり忘れてしまうこともある。日本の金融機関は、大胆な公的資金の投入という政府の決断によって危機的な状況を脱し、株価も急上昇した。日本の銀行は、今では世界で最も安定的な経済成長を支える機能を回復しているが、そもそも彼等が経営危機に直面する理由となった病巣は完全に摘出されたのかと問われて、「完治宣言」出来る人はそれほど多くあるまい。

金融市場においては、価格変動は秒単位で変化するのが観察出来る。同時に、世界の金融システム自身も時々刻々と動いているのだが、それは時計の秒針と時針のような関係にあるため、後者の変革の様子は視覚的にも感覚的にもわかりにくい。そもそも金融自体がわかりにくい分野の一つであり、その中身がよく理解できないのは当然かもしれない。

その中で本書が敢えて狙うのは、金融がどのような変質を始めているのか、そしてそれが我々の社会空間にどのような影響をもたらすのだろうかというまさに金融時計の時針にあたる点を、六つの座標系に沿って描いてみることである。

その座標系の説明の前に、一つの注意事項を挙げておこう。金融市場では、価格情報が透明化したことによって一般の人々が多くの変動を目にすることが出来るようになった。少し前までは、大企業の財務担当者ですら、ドル円のレートは銀行に問い合わせないと判らない時代だったのである。いまや、為替レートも株価も、個人投資家は瞬時に手に入れることが出来る。ネットなどの現代的メディアには市場情報が氾濫しており、誰でも一定の元手さえあれば簡単に金融取引が出来るようになった。

だが、それがある意味では思考能力を低下させている可能性もある。「ドルと円を交換するということはどういう意味なのか」自問せぬままドルを買って、ドル高になるのを待つ。株の手数料が大幅に下がって、個人が一斉に「株式とは何なのか」考えもせずに株投資を始める。金融取引の基本はおろか、金融基盤や金融構造の揺らぎのリスクなど、特に知らなくても利益が出てしまうことがあるのが、金融の魔力なのである。

金融という特殊な分野の事象の一部分が急速に透明化されることにより、いわば民主化された情報世界が、取引規模や市場の拡大を誘った。これは経済の活性化や生活水準の向上に大きく貢献したのは間違いない。

だがそうしたポジティブな結果を生んだ半面、金融世界が胚胎する「危険性」についての視点が軽視されている面もある。金融を甘く見ると、金融で大きな痛手を被る。これは筆者自身が、日米金融機関の「ディーリングルーム」勤務の中で痛感したことである。

筆者が2005年に上梓した「金融史がわかれば世界がわかる」(ちくま新書)で描いたのは、「現代の金融システムが誕生した経緯」に関する概略的な歴史であった。そしてその続編の位置付けとなる本書では、その次のステップとして「現在の金融システムにどういう変化が起こりつつあるのか」を観察することを通じて、金融が内包する危険性をあらためて再認識し、その変化が我々の社会にどんな影響を及ぼすのかを考えてみようと思う。

まず第一番目の座標系は、「貯蓄から投資」という資金の動きの変化である。従来は、お金は「貯める」ものであった。個人のおカネは「物言わぬ置物」のように郵便局や大手銀行の帳簿にひっそりと佇んでいるものであった。高い利回りは要求しない代わりに、確実に自分の懐に返ってくることが最優先の条件であった。

だが、人々は金融危機を通じてその「置物」の所有権が実は自分にはないことに気付き始める。預金とは、銀行への貸し出しのようなものであった。銀行の決算を見ると、預金は「負債」になっているではないか。我々の預金は、銀行が我々から「借入れ」ているに過ぎなかったのである。

我々が「貸している」にもかかわらず、金利が付かない。だが海外を見れば、5%や8%といった利息のつく国債もある。人々が、ゼロ金利で銀行に貸し出すよりも、高い金利で海外の債券に興味を抱くのは当然である。為替リスクはあるが、円安になればさらに利回りは高くなる、というチャンスもある。

いま、おカネがまるで獲物を探すように動き出している。お金が高い利回りを求めて動き出すのは、時間の問題ではあったが、日本でその胎動が生まれたのは、そうしたペイオフ解禁やゼロ金利政策に加えて、年金不安や銀行の投信窓販、ネット証券の台頭といった要因が一斉に重なったからでもある。この貯蓄から投資への流れは加速しつつある。そして投資の活況は、新たなビジネスを刺激し、日本経済にもプラスの影響を与えつつある。

ただし、その期待感の裏側には大きな不安もある。実は、金融のプロもこの分野では少なからぬ失敗を重ねてきたのである。そうした教訓を踏まえぬままに安易な投資が増えるのも問題がないとは言えないだろう。

次の座標系は「日本の銀行問題」である。すでに不良債権処理は峠を越え、金融危機は消え去ったかのようだ。あれだけ騒がれた銀行経営不安も、いまではどこ吹く風である。金融システムが安定化したことは歓迎すべきことであるが、それでは金融危機を招いた病巣が適切な措置によって除去されたのか、と言われれば心許ない。

公的資金と景気回復という両車輪のおかげで、銀行経営は再びレールの上をスムーズに走り出した。そして大手銀行は公的資金を完済し、資本を政府に依存する「半国有化」から脱却し始めた。だが、景気回復によって覆い隠された銀行の弱点は、決して克服されたとは言えないものがある。

銀行システムに寄り掛かる企業の借入れ、中でも地域金融機関に寄り掛かる地方企業の借入れは、日本の銀行が脱しきれない「集中リスク」の存在を浮かび上がらせる。それは間接金融への集中であり、また個別銀行への集中である。

景気とは循環するものであり、日本が今後景気低迷に見舞われないという保証はない。その際に、再び1990年代と同じ過ちを起こすことは許されない。商業銀行とは、景気の悪い時こそ安定感ある経営を示すべき企業である。日本の銀行システムは、本当にそうした信頼感を回復したのだろうか。

三番目の座標系は、「ファンド」と呼ばれる投資集団である。いま、世界中で勃興しつつある様々なファンドは、銀行や証券会社などからの「脱出組」の受け皿となり、その伝統的金融機関のお株を奪うような活躍を見せている。その意味では、「ファンド」は二番目の座標系の問題に密接に関わっている。

日本でもすっかりお馴染みになったヘッジファンドは、投資銀行のディーリングルームの「卒業生」達を中心に様々な運用手法でグローバルな市場で活躍している。また急速な成長を遂げるプライベート・エクイティ・ファンドは、未公開企業だけでなく上場企業に対しても投資を積極化させて、その事業再編や企業買収などのイベントを利益機会として捉えていく。各国の金融市場や産業の構造は、こうしたファンドの活動によって変革し始めたのが現状である。

このファンドの急成長に眉をひそめる向きも多い。「出る杭は打たれる」の喩えもあるが、それ以上に、ファンドの行動原理が社会の理解を得られていないという側面もある。2006年上半期の話題をさらった村上ファンドのように、賛否両論を巻き起こしたケースはその典型であろう。

良くも悪くも、一般社会に「ファンド」という新しい金融集団の存在が紹介され、認知度は高まっている。だがその役割や将来像は不透明で、銀行と何が違うのかも解りにくい。ファンドが現代資本主義の救世主なのか、破壊者なのか、それを理解するにはファンドが生まれた歴史的経緯や行動原理からその本質を抉り取るしかない。

さて第四の座標系は、「米国の金融」である。ドルという基軸通貨の勃興に関しては前著にて言及しているので適宜参照して頂きたい。現代の国際金融のインフラは、世銀・IMFなど国際機関と決済通貨ドル、そして圧倒的な米国軍事力という基盤の上に、世界各国に展開する米銀ネットワーク、派生商品を取り込んだ世界の資本市場、そして柔軟な金融政策力など、米国主導の総合的「金融力」が配置されて出来上がっている。この制度が、金(ゴールド)など実物資産を裏付けとしない「信用による金融」を可能にしてきた。

第二次大戦後に確立されたこの金融制度が、60年余の歴史を経て、いま大きな曲がり角に差し掛かっているのは疑いもないところである。それは米国が抱える巨大な不均衡問題(特に巨額の経常赤字)に象徴されている。米国には、英国からバトンタッチを受けた時のような禅譲の相手もいないため、国際金融の根幹は変わらないとの見方もあるが、米国が世界の金融問題のすべてを一手に引受けられる時代でないことも確かである。

すでに、米国の金融覇権に関しては翳りが見え始めている。ドルへの不安のみならず、世界がお手本にしてきた金融機関経営も以前のような輝きを失いつつある。電子化で出遅れた取引所の焦燥感も見える。そして何よりも、収支バランスの均衡を物分りの良い日本に依存していた時代が終わり、同盟国とは言えない中国やロシア、そして政治的に不安定な中東のオイルマネーに頼り始めたことが、その脆弱さを浮き彫りにしている。

第五の座標系は、第四の座標系の延長線上に位置付けられる。それは、米国覇権の翳りに呼応するように目覚め始めた他地域での「共同体」の動きである。その典型は欧州におけるEUの成立やユーロの導入であるが、共同体意識は、アジア、中南米、中東、中央アジアなどにも広がっている。

EUは、明らかに米国及び日本の経済を意識し、それらに対抗する先進国社会の第三の極として設計された経済共同体であった。また高い潜在的成長性を持ちながらも不安定さを払拭できないアジア地域でも、日中の鬩ぎ合いを絡ませながら、安定的成長基盤を求めてその共同体意識は急速に高まりつつある。

一方で、米国を強く意識して生まれた政治色の強い中南米や中央アジアの共同体においても、最近では徐々に経済面での共同意識が強まっている。中東地域は、親米と反米が渦巻く中で、豊富なオイルマネーを武器に独自の政治経済戦略を志向しつつあるようにも見える。そうした変化は国際金融のあり方に、どんな影響を及ぼしていくのだろうか。

またBRICsと呼ばれる新興国の経済成長力は、先進国の成長スピードを大きく上回り、第二次大戦後一貫して世界をリードしてきた米国経済のスーパー・パワーの相対的な低下をもたらしている。こうした新興勢力の台頭と共同体意識の覚醒が独特のナショナリズムを産み、それが先進国のナショナリズムの台頭を促すという現象も起きている。それは、戦後の経済発展を支えてきた自由主義経済体制への大きな脅威になりつつある。

最後の座標系は「金融は社会と対話しているか」という問題意識である。昨今の金融市場ではよく「金融当局が市場と対話する」といった表現で、中央銀行による金利政策決定などにあたって市場の動向との密接なコミュニケーションを計ることの必要性を説いている。グリーンスパン前FRB議長は、こうした「対話法」を重視したことで知られるが、日銀や欧州中銀などもその手法を導入しつつある。

だが、金融という社会自体が現代社会とうまく対話しているかと問われれば、その間には必ずしも円滑な会話が成立しているとは言えない。日銀の福井総裁が村上ファンドへ出資していた問題では、総裁自身の弁護を含め金融界から聞こえた「擁護論」は、まさにこの業界に「社会との対話法」が存在しないことを露呈した。

金融は、社会にとって必要不可欠の機能である。もちろん金融にも自己主張する権利はあるだろう。金融から、資本の自己増殖機能を外せば金融は死んでしまう。だがその防衛本能を剥き出しにすれば、社会と反目するリスクを背負う。その難しさを調節するのが、社会との対話法である。

金融とは社会に有用な存在である。従って、その文脈に沿った資本の論理が許され、金融市場はその実現性を担保するのである。金融社会がその意識を失って暴走する時、人々は金融市場や金融機能の発展そのものを忌避し始めるだろう。それは将来の経済社会の発展へのマイナス材料以外の何物でもない。

本書は、いま起こりつつある金融の変質を観察し、その本質をどう理解するか、というポイントに重点を置いた。部分的には、やや専門的になりすぎた箇所もあるかもしれないが、大まかな流れを把握するだけでも、「現代の金融」が大きな曲がり角に差し掛かっていることはお分かり頂けるのではないかと思う。

現代社会は、もはや金融の知識なしには理解できなくなっている。そんな時代に、この一冊が少しでも「社会との対話法」として役に立てれば望外の幸である。

ちくま新書(740円)

目次

第一章 投資時代への期待と幻想

第二章 ポスト不良債権時代

第三章 経済社会を動かすファンド

第四章 米国型金融システムの揺らぎ

第五章 多極化へ動き出すマネー社会

第六章 金融と社会との対話

<尚、年初より連載して参りました「金融力の思想系」は今回を以って終了致します。暖かいご声援を有難うございました。来年以降はまた気分新たに、思いつくままあれこれと書き綴ってみたいと思います。皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。>

2006年12月15日(第137号)