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◆ 金融は社会と会話可能か
昨年末に上梓した「世界がわかる現代マネー6つの視点」において、金融と社会との対話について一章を割いた。論点が必ずしも絞りきれていないという印象を持たれた人も多いかもしれないが、言い訳するとすれば、それはこの問題を意識してまだ日が浅いからである。金融市場に20年以上もどっぷりと浸かってしまうと、金融そのものが自分の社会になってしまい、その外側への意識は、当然のことながら金融座標の計算式からの演繹に止まってしまう。その慣習を捨てることが出来たのは、ここ数年のことでしかない。
だが社会という言葉は極めて抽象的であり、具体的に何を指すのかを定義しないと「金融と社会との対話」といっても通じない。Societyを「社会」と翻訳したのは福沢諭吉だと聞いたことがあるが、それは間違いで、実際には東京日日新聞の社長を務めた福地桜痴であるという。大規模な集団や組織を指しての言葉だが、現代ではむしろ豊かな社会、ネット社会、高齢化社会といったようにある時代を特徴付ける形容としても使われることも多い。
だが基本的に「社会」は、日本社会、イスラム社会、上流社会といったように特定の構成員によって形成される共同体を指すような使い方が一般的だ。筆者が「金融と社会との対話」というテーマを持ち出す際に想定しているのは、ごく端的に言えば「日本社会」である。だが、それは「日本国家」とか「金融市場」という実態的な概念に比べると、極めて曖昧な対象物のようにも見える。また「国家と社会との関係」や「社会と個人との関係」も、解ったようでいて正確に答える自信もない。
具体的裏付けのない推論で恐縮だが、西洋史における「社会」の概念の発展は、国家と対立しある意味で国家から自立するという所謂「自由の獲得」のプロセスと密接に関係があるように思う。つまり国家に対峙する市民社会は、生存権に始まり自治権や財産私有権の獲得に向かい、現代に至っては福祉基盤などを要求しつつ「国家に対する社会」という輪郭を形作ってきた。そのコンテクストにおいて戦後日本のリベラル派は「日本社会は国家権力に対するバリアーが脆弱だ」といったように社会の未熟さを指摘してきた。
ただ、現在においてはそうした国家と社会との間の概念としての対立が曖昧になっている、と市村弘正・杉田敦の二人の社会学者は「社会の喪失」(中公新書)の中で述べている。個人が社会と底通する一方で、その社会の中に深く政治が入り込んでいるからだ。社会はもはや政治と無縁ではない。それどころか、かつては国家と区別されて「イノセントな存在」であった社会は、いまや社会国家や福祉国家に吸収されてしまっている、というのが彼等の見立てである。それは国家と社会とが区分しにくくなっている、という深刻な事態を意味している。
◆ 社会の変質・喪失リスク
国家とか社会とか個人とか言い始めると、何だかイデオロギー闘争でも始めたような気分になるが、良くも悪くも現代に「社会」を意識させる雰囲気を醸成したのは小泉前首相である。自民党という存在を否定しながら自民党を延命させるという「政治社会」の自己矛盾を見事に「テレビ社会」を使って劇場化し、市場経済を過大評価して所得上の上下層分離を促す米国流「格差社会」を形成し、郵政や道路という「既得権社会」を揺さぶった後に「無責任社会」を残して退陣してしまった。
もっとも、社会喪失への危険性が高まっているのは、その後を継ぐ安倍政権においてかもしれない。教育再生会議などで見られる議論やNHKへの報道命令などは、明らかに国家の社会への侵入であり、即ち個人への統制である。小泉前首相は国家と区別のつかなくなった社会を手玉に取る術を知っていたが、安倍首相は社会を警戒するあまりに、不本意ながら社会と対立せざるを得なくなっている。これは幸か不幸か、国家と社会の再認識という議論に結びついていくだろう。今年の政治は荒れ模様である。
閑話休題。結局、個人は国家に従属しているという事実からは逃れられないものの、それは個人と社会、社会と国家というそれぞれの間に境界線が引けないということではない。恣意的であるにせよ、むしろ何らかの線を引かないのは危険であり、個人と国家とが社会を媒体に同化すれば全体主義に陥るリスクが高まることは歴史が示している。個人が社会に対して線引きをすると同時に、社会もまた国家に対して一線を画す存在に回帰する必要がある。
社会は喪失されてはならない存在だが、それは個人を国家から守るという防波堤でもある一方で、国家が個人を侵食する為の媒体にもなり得る。誰がその調整弁を担当するかによって、そして社会の構成員がどちらの塩梅を好むかによって、社会は大きく揺れ動く。それは世論という怪しい統計によっても創造されていく。
金融が社会と対話できるかどうかも、その社会の風向きによって変化する。金融が社会に迎合すべきだという話ではない。社会の風向きを熟知した上で、金融はその論理を語る必要があるのだ。いわばプレゼンの問題でもある。現代金融(即ち金融庁や日銀や銀行や証券や保険や投信など)は、社会を国家に埋没した形で捉えてきた。当然、社会を構成する個人もその中に封じ込められている。
金融は、市場機能は国家経済の繁栄や成長持続の為には良い事であり、即ち社会に取っても「良い事」であるから、その良さを説明することは不要だと考えてきたような気もする。その溝が顕現化したのは不良債権処理時代である。それは正しい選択であったが、行政は通り一遍の説明で「国家の利益=社会の利益」と断じ、社会の反国家的議論に反駁するのではなく、それを抑圧したのである。今になって市場主義への反感が浮上してきたのは、その対話法の粗末さゆえではないのか。
◆ 藤原正彦氏の議論
昨年のベストセラー「国家の品格」で、数学者としてよりも保守論者として有名になってしまった藤原正彦氏の「市場原理批判」は、そういう意味では「社会からの反撃」と読み取ることが出来る。同氏は文芸春秋1月号でも、市場主義が日本の古き良き環境を崩壊させたとして吠えまくっている。そこに「伝統的日本社会」という視点が強く意識されているのは明白である。
藤原氏の議論は至って単純である。米国の真似をしたがる経済学者と企業経営者たちが、新し物好きの小泉前首相と一緒になって「和を以って尊しとなす」の文化を破壊し、市場がすべてであるとの破滅的な哲学を社会に刷り込み、平和で協調的な日本社会をボロボロにした、という論旨である。数学者だけに論理は明快だが、その公理の設定はあまりに稚拙であり言葉も無い。心情的に理解できる部分が無い訳ではないが、市場の機能と効用を全く理解していない議論は、読むに耐えない。
だがこうした議論は「社会」に強烈にアピールする。その意味で、藤原氏は「社会との対話」に成功している。逆説的ではあるが、藤原氏が強く批判する小泉前首相と同じように、同氏の社会との対話法は極めて卓越したものがある。だからこそ、「品格」が流行語大賞に選ばれたのである。
金融の対話法は、その点全く比べ物にならない。不良債権処理にしても、消費者金融にしても、或いは利上げにしても、社会との対話法は機能していない。本誌134号で、生命保険経営研究会が「命担保」の問題を採り上げていたが、これは実に重要な指摘であると思う。消費者金融のすることはすべて「悪」であり、命を担保にするなど言語道断だといった「社会の声」に金融は沈黙したままだが、そこに隠された相続による消費者の不利益を問う反論は聞こえず、金融はメディアが代弁する「社会」の神経を逆撫でしないように、或いは世論を盾に君臨する金融当局に脅えるかのように、対話すらもしない。
「社会」は国家に対立する者として存在感を復活させつつあり、金融行政はそのトレンドに乗ろうと躍起になっている。金融業の代弁者であることを捨てるのは意味があろうが、単なる大衆迎合は金融力を押し潰すだけであることは自明だ。いや、金融庁をはじめとする国家は社会と対話しているように見えて、実は社会を味方に付けて再び国家と社会の壁を崩して一体化させようとしているのかもしれない。政府お手盛りのタウンミーティングなど、そうした意図の露呈だったのではないか。
金融は、社会との対話法を学ぶべきである。それが社会の経済的・金融的な健全性を担保することになるからだ。そして、社会が国家との建設的な対立関係を維持するために、金融が果たせる役割を見出すべきである。小泉前政権から学ぶべき唯一の教訓は、社会の調整弁を仕切る人々に訴えるためのメディア戦略、具体的にはストーリー・テリング(物語製作)のノウハウ蓄積を真剣に考えることである。
2007年02月23日(第141号)