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◆ ポスト新自由主義への道
◆ 漂流するGDPマシーン
本年2月末、上海市場で起きた9%の株の暴落は日本や欧米市場にも襲い掛かり、世界の金融市場を震撼させた。但しその調整プロセスは、リスク感覚が弛緩したバブル的リスクテイクへの警鐘との見方も多く、一時的な下げとしての解釈が主流である。筆者も株価上昇過程の必然的調整と見る立場ではあるが、この調整は意外に長引く可能性も否定は出来ず、そこに潜む本質的な現代資本主義の病巣の進展も決して無視できない。
やや単純に言えば、現在の日本経済動向からすれば日経平均はとっくに20,000円に達してもおかしくないと考えるし、米国における不均衡問題解消の糸口が見えないからと言って米国株やドルが近々暴落するとも思っていない(但し米株はあまり上昇余地はないと思うが)。中国やインド株も、それなりに上昇カーブを継続するだろうと考えている。つまり、経済環境の風向きはそれほど変わっておらず、現代金融を支える資本主義システム自体も十分耐久性を維持しているものと見ている。
だがやや長期的に考えれば、米国が主導してきた新自由主義的イデオロギーに基づく資本主義は、徐々にその欠陥を露呈しつつ瓦解する方向へ向かっているような漠然とした感覚を否定できないでいる。それは単に年末に向けて景気が後退するといった循環論でもなく、また決して資本主義そのものが崩壊するというものでもない。米国型とは違う資本主義が多方面からチャレンジし始め、多種多彩な経済的イデオロギーが林立していく時代の始まりにおいて、米国が主導してきた新自由主義の綻びが露呈し始めるというラフ・スケッチである。
例えば欧州は、米国流の金融市場を導入しながらもその伝統的な社会福祉思想を決して捨てることはない。一方で、ロシアはプーチン流の国家管理型資本主義を全面に打ち出しており、中国も胡・温体制での新たな社会市場主義構想を植え付け始めている。反米を鮮明にするベネズエラなどの左翼政党やイランのようなイスラム主義国もまた、独自の資本主義構想を建設していく可能性もあるだろう。
その中で日本だけが、米国追随の新自由主義とカビの生えたような保守思想の不毛な対立の中で、独自の経済思想を打ち立てられないまま右往左往し、神風のように吹き続ける景気回復に甘えて問題提起を先送りしている。あまりに単純な対米追随による改革を狙った小泉政権と、その保守反動ぶりが旗幟鮮明となってきた安倍政権という新鮮味の無い政治体制の下で、史観を踏まえた改革思想も真の保守思想もないまま、まさに「太平洋に浮かぶGDPマシーン」の如く漂流し始めている。
余談ではあるが、ある経済学者が拙書「金融史がわかれば世界がわかる」への書評の中で金融を唯物史観ではなく市場構造史から見るアプローチを評価してくれつつ「実は日本ではほとんど経済学における保守主義などまともな形で実現してはいないのだ」と指摘していたが、実際にグローバリゼーションに名を借りた種々の日本の政策は、過去における幾多の政府の失敗を糧にして反動的に導入されたものに過ぎず、保守思想と革新思想とが本格的に格闘した結果ではなかったのである。ホリエモンに対する2年6ヶ月の懲役実刑が、そうした寂しさを一層際立たせているようにも思える。
◆ 2006年の教訓
思えば、昨年の2006年は、日本が資本主義と真剣に向き合った最初の年として記録されても良い年であった。楽天がTBSへ、村上ファンドが阪神へ、ホリエモンがニッポン放送へとそれぞれ触手を伸ばして旧来の伝統産業の経営陣の心を揺さぶったが、それより重要だったのは、彼等新興勢力によって各伝統企業における「資本の意味と何か」という問題が浮き彫りになったことであった。まさに資本主義の本質が問われていたのである。
だが議論は、資本主義の枠内で資本の論理を肯定する意見と、資本主義の恩恵を忘れて資本主義の短所を攻撃する批判とが、それぞれ自己主張を繰り返してすれ違っただけであった。挙句の果てに、品格という経済思想とは全く次元の異なる言葉を持ち出して古き良き日本を称え、盛り上がるかに見えたその資本主義論争は冴えない終焉を迎えてしまったのである。勿論それ以降も企業の再編は起こったが、現代資本主義を問い直すほどの意識の高まりは見られていない。
その中で、新自由主義思想に沿った経済社会作りは進んでいく。三角合併もその手段の一つである。海外ではヘッジファンドやPEファンドによる金融市場のファンド化だけでなく企業経済のファンド化も進み始め、こうした動きは「歴史的進歩」であると信じて疑わない人々が、日本もこうした金融構造を導入しなければ世界に置いて行かれると主張する。
それに真っ向から反対するつもりははない。ファンドの存在には合理性があり、企業買収も経済成長過程の不可避的現象だと思う。日本金融システムの発展の遅れは深刻であり、今後の潜在的経済力を示現するためには、一層の改革も必要なことは言うまでも無い。だが、その手法が単なる米国追随で良いのかどうか、そろそろ点検を始める必要もあるだろう。米国流資本主義を支えてきた同国金融力に、様々な問題点が噴出し始めているのがその理由である。
2006年の資本主義の本質に迫るべき議論が中途半端に終わったことで、日本は再び暗黒の経済に向かう危険性を帯びている。現在の日本の景気動向からすれば、かなり違和感を持たれる読者も多い筈だ。だが、この景気サイクルが終了するであろう数年後の問題として考えて見る必要もある。過剰貯蓄の使い道がなく米国に流入しているマネーが、米国の景気減退と途上国におけるインフラ資金需要の高まりの同時発生によって急激に逆流する可能性は小さくない。SOX法のように、一部の倫理感無き金融人の悪事によって業界発展自体を抑制するような規制導入に拍車がかかれば、米国金融が享受してきたメリットは一瞬にして消滅しかねない。
仮に米国がこうした状況に見舞われて新自由主義のイデオロギーに大きな疑問符が突きつけられた時、米国的思想に盲目的に追随してきた日本が米国と同様に資本主義の座標軸を失って右往左往する危険性は考えておく必要があろう。マルクス主義からケインズ政策へ、そして新自由主義へと米国を眺めながら簡単に思想転換してきた日本に、独自の経済思想を育む土壌は形成されていないからである。
◆ マルクスは現代をどう見るか
筆者はマルクス主義者でもなく社会主義思想に幻想を抱く者でもない。やはり経済社会は市場機能をベースにした資本に立脚したシステムであるべきだという立場を取る。但し現代の、純度を上げ続ける米国流資本主義体制には幾許かの不安と懸念を抱いている。同時に、そうした社会を批判的に見るためには、従来の市場主義的立場ではなかなか切り口が掴めないという苛立ちも抱いている。
そこで頭に浮かぶのは、マルクスならば今の資本主義をどう観察したか、という問題意識である。今さらマルクスの出番などあり得ないと笑い飛ばす人も多いだろうが、マルクス経済学に出番はなくとも、マルクスによる経済学批判はまだ輝きを失っていない。むしろ、マルクスが観察した当時の英国資本主義はいわば原始的な形態の資本主義であり、彼が処方箋を間違えたのは無理からぬ結末であったとも言える。むしろ、現代の新自由主義に基づいて成長を遂げる現代資本主義こそが、マルクスの批判したかった経済イデオロギーなのではないか、とさえ思えるのである。
マルクスは商品交換の概念を拡大して、資本が労働や土地を商品化して生み出す「剰余価値」に着目しその分配のあり方を通じて経済拡大プロセスにメスを入れた訳だが、現代においては資本が生み出す「余剰資本」はどういう価値を持つのか、その源泉は一体何なのか、といった本質の分析を迫られているようにも思える。
余剰資本とは、まさに経済と金融が折り重なる分野での研究課題であり、それは資本主義を冷酷に見つめる社会思想の視点から語られなければならない。近代史において、資本主義を最も客観的にそして徹底的に分析したのは誰あろうマルクスその人であった。
経済が成熟期に入ったと思われる現代において、余剰資本が合理性を求めて市場を駆け巡る時それは人々に何をもたらすのだろうか。これはあまりに大きな話である。今回はそうした問題意識を提起するに止め、折に触れてそうした観点から新自由主義への批評を論じていくことにしたい。