HOME > 2007

◆ 金融行政はアダム・スミスに還れ

◆ 仕事を作り始めた金融庁

金融規制には相応の歴史がある。そしてそれに対する軸として金融規制緩和がある。日本の業態への規制としては銀行免許制や興長銀・為銀制度、銀証分離などはその例であったし、市場規制としては有名な社債適債基準もあった。さらに四畳半金利なんていう政策的規制もあった。また、株式市場のストップ高・ストップ安などのサーキット・ブレーカーも一つの規制である。 

時代とともに意味が薄れて既に撤廃された規制も多いが、現在でも不思議な規制はゴロゴロころがっている。例えば、政府が「投資の時代の到来」などと吹聴する割には、個人向けの投資一任業務などは一切認可されない。騙される人が気の毒なのは解るが、騙されぬように躾けることを何もやっていない方が問題である。

結局、悪人と無知の存在を大前提として制度を作ることになるため、ビジネスの発展が妨げられることもある。日本の金融力など、所詮はその程度のものだと諦観する人が多いのは、こうした規制の哲学が欠如しているからでもある。

さらにここ数年、世論を御旗に立てた金融庁の検査方法が度を越している、という声が強まっている。何時の時代でもお上の検査は嫌なものである。筆者も邦銀時代、米銀時代それぞれに嫌な思いをした。だが少なくとも会話は成立し、当局の人々は当方の主張を受容するしないは別として、書き留めてくれていた。だが最近はどうやら風向きが変わってしまったようだ。会話どころか、まるで職員を頭から犯罪者扱いするような検査官が増えていると聞く。

固有名詞を出す訳にも行かないが、ほぼすべての大手金融機関経営層や中堅職員から同じような愚痴を聞いているので、多分間違いはないだろう。聞いた中でも一番ひどかったのは、ある職員に「正直に非を認めないと君の社会的人生を終わらせるなど簡単なことだよ」などと検査官が迫ったケースである。これには流石に驚いたが、ある外資系の古い仲間にこの話をしたら、似たような話は少なくないことが解った。

さらに金融界が一様に指摘するのは、検査官のクオリティの低さである。金融庁の検査体制も充分でない為、急仕立ての職員を派遣することも多いのだろう。プライドだけ高く基礎知識に乏しい検査官に遭遇した時の悲惨さは、不運と嘆くだけでは済まない。延々と金融版の「イジメ」が続き、生産性は落ちて、酷い場合はポストを外される、などということもあるそうだ。

金融市場と経済社会には、自由競争が必要だが同時に規制も検査も必要である。だが何の為に規制があって、何のために検査をするのか、そうした基礎理念の説明が末端職員にまでどこまで浸透しているのか、大きな疑問符が付く。或いは金融庁幹部自らが規制と検査を「成果主義」として理解しているのだろうか。或いは、金融改革プログラムの終了にあたってマーフィーの法則よろしく新しい仕事作りに着手したのだろうか。大臣はそれを承知の上で金融センター構築などと騒いでいるのだろうか。

◆ アダム・スミスに戻る

規制という概念は、社会思想の欠片である。つまり市場社会や資本主義社会というシステムが効率的に、そして公平に働くために必要な手段として規制が導入される。直感的には、「見えざる手」による自由主義的思想をもたらしたアダム・スミス流の経済観に対抗する管理社会的な思想の下に規制という考え方が生まれたようにも思えるが、事実はそうではない。反対に、アダム・スミスは自由主義確立のためには規制が必要だと考えていたのである。

既にどこかで書いたが、アダム・スミスはもともと経済学者ではなく倫理学者、つまり道徳の先生のような人である。その「国富論」は、当時の重商主義的な統制主義に対して自由主義を主張したものと理解されている為、アダム・スミスをいわば「規制撤廃論者」のように位置付けている人も多いかもしれない。

彼の著作は「国富論」が有名だが、その論旨の根底を成しているのは「道徳感情論」であることは良く知られている。倫理学者としてのアダム・スミスは、人間の利己心に注目し、利己的であることが人間の自然本性であると説いた。但し、同様の出発点から「万人の万人による闘い」を想定したホッブズと違って、アダム・スミスは利己心こそが人間が幸福となるべく神から付与されたものだと考える。

利己心とは現代風に言えば「ジコチュー」みたいなものであるが、それが他人をも触発して社会全体を活性化させる、というのがアダム・スミスの思想である。そこで重要な役割を果たすのが「公平な観察者」である。利己的活動を野放しにせず、他人との相互調和を通じて様々な活動が生まれるには、そうした社会構築に共感する第三者によって、行動の適正さがチェックされなければならない。アダム・スミスはそう考えたのである。

「見えざる手」が誇張されて伝えられた為、彼の自由主義思想はすべてが勝手気ままに行動する結果として最高の社会的利益が生まれるといった内容に勘違いされ、現代の妄想的市場主義を下支えしているが、それは誤った解釈である。アダム・スミスの理想は、市場社会を理解する第三者が公平に観察することを通じ、企業家たちの利己的な活動が調和して結果として勤勉や節約、賢慮といった徳性を生み出すことであった。

もっとも、経済学史的に言えばアダム・スミスの功績は「国富論」における「富の概念」の発見に重点が置かれ、その国富を増大させる為の社会的分業の重要性の指摘が重視されることになり、思想的出発点となった「利己心と観察者」の構造論はそれほど注目を浴びなくなる。いわば経済学は、社会思想的な色彩を薄めてモラル・サイエンスから距離を置き、社会のあるべき姿を問う姿勢を失っていく。

それは、ある意味で現代的な経済や金融が、一般社会との視点を徐々に失っていった事象とも深い関係にあるように思える。メンデルスゾーンがバッハを再評価したように、20世紀にアダム・スミスを「復活」させたのはハイエクであるが、それは「計画経済」に対抗する概念としての「市場経済」を訴えるための議論であったため、市場力学を中心とする自主的秩序の重要性を強調するあまりに、本来アダム・スミスが抱いていた「公平な観察者」の必要性という部分を切り落としてしまったのであろう。

こうしたやや偏狭な自由主義論と、それに対抗する管理社会論という対立構図は現代にも受け継がれていく。その中で、規制や検査といった役割も歪められていく。金融庁の検査姿勢は、まさに保守回帰の流れに沿った「自由主義いじめ」として、メディアの支援にも助けられて増長しているのではないか。

◆ 規制は何の為に

金融も経済も、何らかの社会思想の堆積上に築かれるものである。欧米型の経済や金融システムは、極端に言えばギリシア時代の思想から連なる現代思想を経て生まれたものといっても良い。50周年を迎えたEUのような共同体指向やユーロのような共通通貨の選択も、欧州が国家をどう考えてきたか、という思想的蓄積の補助線上にある事象である。

その意味では、実は米国の経済・金融は、工業国としての勢いに任せて発展しただけに、上記のような偏狭な自由主義的思考に染まっていると見ることも出来る。従って、エンロンなどの事件が発生して以降、それに敢然と対抗する反動が生まれ、SOX法などむしろ米国の金融力を殺ぐような法律が簡単に出来たりしたのであろう。勿論、現在の「反SOX法運動」などは、米国特有の自浄作用として客観的に評価する必要もある。

最近のヘッジファンドやPEファンドへの規制に関して、欧州と米国とで対応が大きく違ってきたのも、この思想的蓄積の違いと見ることも可能ではないだろうか。流石に米国はその金融力低下に焦燥感を感じ始めている。だが日本の金融庁は、米国流思考の直輸入から抜け出せないままだ。だからこそ、前述したようなまるで魔女狩りのような検査が至る所で発生しているのだろうと推察する。

公平を期すために記すが、金融庁も例えば非営利法人のNPOバンクを自己資本の規制対象から外す、といった規制緩和の措置を検討していると伝えられる。昨年、貸金業登録に必要な純資産額の下限を500万円から5,000万円に引き上げることを決定、既存のNPOバンクや新規設営準備をしていた機関が稼動しなくなると指摘されていたが、金融庁は出資額を超える配当や残余財産の分配をしない、役職員の報酬が高額でない、といった条件付きで規制の対象から外すことを決めたようだ。

だがこれは金融庁が当初から描いていた形ではない。同庁は、例外は認めないという方針でNPOバンクも規制対象とする考えであった。それが一転したのは、昨年の「グラミン銀行ノーベル賞受賞」というニュースであったと聞く。マイクロファイナンスの重要性を、こともあろうに海外における評価で漸く認識するというお粗末ぶりであったのだ。

先週、預金保険機構が衝撃的な公表を行ったことをご存知の方も多かろう。同機構は「預金保険機構が実施する預金保険法に基づく金融機関への立入検査において、不適切な業務処理があったとの情報から、内部調査を行ったところ、明らかに不適切と認められる行為が行われたことが判明致しました。」と述べた。

同機構は「機構の信用を著しく失墜させるような威圧行為や、機構の実施している名寄せ検査に必要な範囲を過度に超える作業を被検査金融機関の職員に強いるなどの不適切な行為を行い、当該被検査金融機関の職員に心身ともに大きな苦痛を与え、当該職員が著しく体調を崩し、緊急に通院・加療を余儀なくされる事態を招いたことが判明」したと謝罪している。

また同時に「原則禁止とされている検査会場外への検査資料の持ち出しや、倫理規程違反につながりかねない行動等の不適切な業務処理が行われていた事実も判明いたしました」とも公表している。恐らくこれは氷山の一角であろう。こうしたお上の検査姿勢が、金融庁を中心に全国に蔓延しているのはほぼ間違いない。

一定の規制や検査がなければ、市場社会は機能しない。アダム・スミスの教えは、真理を突いている。そしてその観察者は「市場と共感できる者」でなければならない。この指摘も、アダム・スミスの死後200年以上経過した今でも正しい。金融行政はいま、その古典の精神に戻るべきであろう。

2007年04月06日(第144号)