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◆ 参加することの意義
◆ BIS二次規制
いよいよBISの二次規制が導入される。バーゼルのBISの名前を知ったのは銀行に入った直後だが、その当時はBISが金融規制の中心地となるなどと予想もしなかった。ドイツ戦後処理のアドミ機関程度の認識しかなかったからである。教科書には「中央銀行の銀行」などと書かれていたが、市場実務的にそのような形容に等しいBISなど見たこともなかったし、誰もBISなど話題にしたことは無かった。
その様子が一変したのが1987年頃から議論の始まった自己資本規制である。1975年にG10諸国の中央銀行総裁会議により設立された銀行監督当局の委員会である「バーゼル銀行監督委員会」が1988年7月に「自己資本の測定と基準に関する国際的統一化」を発表したことから、俄然スイスのバ−ゼルが注目され始めた。同委員会はBISとは別組織だが、常設事務局がBISに設置されているために、「BIS規制」と呼ばれている。
BIS規制については反復する必要もなかろう。信用リスクを考慮した必要自己資本の計算、市場リスク計量化による必要資本計算の精緻化、そして信用リスク計量化の洗練化など約20年にわたる一連の作業は確かに金融システムの安定化への一里塚となった反面、その教条的な規制概念は金融経営の本質を否定しかねないとの批判も生んだ。
当初導入された際には、欧米にとって共通の「仮想敵国」である日本の存在が規制議論をスムーズに回した点は否めない。今回の大修正においては、そうした共通敵の消滅によって個々の国々の利害対立が目立ったようにも見えた。私見に過ぎないが、いずれ米国は固有のロジックを使ってBIS規制を再修正するか、或いはその枠組みから外れる方向性を模索することになるのではないか。何だか安保理問題と相似的な部分があるようにも思えるが、金融と軍事の近似性を考えれば、それほど突飛な話でもない。
閑話休題。日本はBIS規制議論に正しく参加してきたのだろうか。勿論ここで従来の日本当局の取組み批判を行うつもりは無い。筆者の議論も所詮は後付けであり先見の明があった訳でもない。但し今回の修正案に限って言えば、ひたすら従順なのは日本だけのように見える。まさかとは思うのだが、オリンピックと同様に「参加することに意義がある」といった誤認識がありはしないか、という気にもなる。
確かに信用リスク計量の緻密性を求めることは重要であり、オペリスクも大切な管理概念である。だがBISの決定方針に従って粛々と管理方法の変更を下達する日本の金融行政を見ると、諸外国の圧力による勝手なルール変更でメダルから遠ざかっていく柔道やジャンプなどのスポーツ界にも似た思いを抱かざるを得なくなってくる。
◆ 「テイク・パート」
日本語で「参加」と言えば、下らない会議にしぶしぶ出席するイメージに代表されるように、無能な役員が司会を務める会議に引っ張り出されるように、或いはそこまで酷くはなくても消極的に「とりあえず物理的な位置を占める」というスタンスでかかわるニュアンスが強い。会議を積極的に引っ張っていく姿勢は「参加」とは少しイメージが違う。反対意見で主流派を血祭りにあげようといった過激な場合も「参加」とは言わない。而してオリンピックへの「参加」精神も、積極性の意味は消えて、競技者の一人として「末席を汚す」程度の発想になり易い。
だが本来、参加とは「テイク・パート」の意味である。30年前の名著「社会認識の歩み」(岩波新書)の中で、内田義彦氏はそう語っている。言葉とは恐ろしいものだとつくづく感じさせられる一文である。勿論、同書は言葉の意味を主題としたものではなく、日本語(特に輸入語)における言葉の薄さと社会認識の薄さの相関から、日本における社会科学の浸透が実際社会と歩調を合わせられない粗末な現実を解説した見事な作品であるが、それはいずれ金融と絡めて論述することとして、今は内田氏が指摘した「参加」の意味論のみに注目することにしたい。
「参加」に対応する英語の「テイク・パート」、即ち何らかの役割、持分をこなすという言葉が、まさにアングロサクソン的な「集まり」を表現するものであることは、何らかの形で彼等と社会的接点を持ったことのある人なら容易に理解できるだろう。オリンピックでよく引き合いに出される「参加することに意義がある」というメッセージも、まさにそうしたニュアンスが込められている。
同文はクーベルタンの言葉だと解説されているが、日本オリンピック委員会のHPに拠れば、そうではないらしい。1908年の第4回ロンドン大会の陸上競技で英米間に深刻なトラブルが発生し、両国民の間に激しい感情的対立が生じて競技そのものの実行が危ぶまれた為、同国セントポール寺院でペンシルバニアのエチェルバート・タルボット主教が選手たちを前に「オリンピックで重要なのは勝利よりも参加することだ」と説教したのだという。選手がいなければ舞台にならないのである。
その5日後にクーベルタンIOC会長がその言葉を引用し、現代まで語り継がれている、というのが真相だそうだ。つまり「オリンピック参加」というのは、もちろん渋々でも無ければ単なる物理的現象でもない。競技を行うと選手として己の存在感をアピールし、世界中の観衆が期待する競技の一つの重要な構成者としての役割を果たすという意味での積極的な「テイク・パート」なのだ。
それは、忙しい(或いは怠慢な若しくは無能な)上司に代わって会議に代理出席する時のような「参加」とは大きな違いがある。日本語で言えば、居眠りしていても許される会議への出席も参加であり、メーデーで旗を振って帰りにバーで乾杯するのも「参加」である。六か国会議でも、とまで過激なことを言うつもりは無いが、それにしても日本の国際会議への参加迫力が薄いのは、むしろ「日本の定位置」として世界からも認知されてしまっているような気もする。
私も偉そうなことは言えないが、欧州駐在時代には様々なデリバティブズ会議で下手糞な英語で堂々と意見を述べさせて貰った。参加するからには意見を述べて帰る。逆に意見もないような会議には参加する意味が無いと割り切って欠席する。そう考え始めると逆に急に気が楽になる。そんなものである。
◆ 「BIS規制」はまだ必要なのか
新たなBIS規制では、証券化商品やヘッジファンドなど、融資以外の運用に関わるところで銀行が頭を痛めていると聞いている。そもそも論で行けば、BIS規制の導入は自己資本に比べて身の程を知らぬような融資をするなという精神であったから、今回の新しい管理技術論はその基本路線からやや逸脱していると言えなくも無い。規制の目的は「金融経営・金融システムの安定化であるからそれで良いのだ」ということかもしれないが、そんなことはもうそろそろ経営手腕に委ねても良さそうな頃である。
BIS規制は「銀行経営は学習しないものだ」という前提で走り続けている。中には本当に学習しない経営者もいるだろうが、現在少なくとも世界の金融システムに影響を与えそうな金融機関に、そこまで無能な経営が蔓延しているとも思えない。金融業界は、あまりに馬鹿にされてはいないか。BIS議論をそのまま日本に持ち帰る当局者も、そろそろBISの史的意味を考えながら、反論する準備をしてはどうか。その意味で、米国の金融当局と結託することは可能かもしれない。これぞBIS版の「参加」ではないか。
日本では大手銀行よりも地方銀行の方がBIS新規制に振り回されているとも聞く。これまたそもそも論でいけば、地域金融にBISなど直接関係はない。BISルールを国内的に援用してシステムの安定化を計っているだけなのだが、杓子定規な定義による頑なな運用は、経営を羽交い絞めにして窒息させかねないようなところもある。地域における金融危機はまだ去っていないとの考えには同感だが、だからこそ弾力的に対応すべき部分もある。地銀経営こそがこうした規制論修正に向けて「テイク・パート」する必要があろう。
広辞苑に拠れば、参加とは「仲間になること」「行事・会合に加わること」だそうだ。銀行は丁寧にこの伝統的定義を守ってきた挙句、その存亡の淵に立たされている。そろそろ「参加」意識を捨てて、「主導」意識に切り替える時期である。