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◆ なぜ金融パニックは反復するのか

『恐慌と熱狂は…….我々が智慧を振り絞って理解し思考しうる範囲をはるかに超えた現象である。しかし唯一つ確かなことはある時点で多数の愚かな人々が多額の危険な資金を持っていることだ。時折、はっきりしない原因からそうした人々の資金が著しく増えて誰かがそれをどんどん使うのを待つようになる。所謂「過剰」状態である。そしてそれを使う人が現れると投機が発生する。資金は使い尽くされて「恐慌」が勃発する。』<ウォルター・バジョット>

『私は天体の動きは計算できるが、人々の正気を失った行動を計算することはできない。』<アイザック・ニュートン>

◆ FRBにすがるしかない金融市場

7月下旬にサブプライム問題の亀裂が判明して市場が妙な空気に包まれ始めてからほぼ1か月が経過した。昨年5月と本年2月に起きた株価調整、英米流に言えばRisk Re-Pricingの動きがほぼ1ヶ月で収束したのと比べれば、今回の問題の深刻さは歴然としている。既にメルマガでは書いたとおり、もはやRe-Pricingなどと呑気な話をしている場合ではない。今回の厳しい値動きは、明らかに現代金融のDisillusionmentである。

もっとも、過熱感の乏しかった日経平均で16%の下落というのは行き過ぎの感じがしないでもないが、それだけ疑心暗鬼ということでもあり、またそれだけ外人動向に振り回されやすくなっているということでもあろう。株価という存在が、如何に論理的根拠のない市場であるかを物語る現象でもある。過去そうであったように、市場は自力反発のエネルギーを見出すことが出来ず、結局FRBの救助を求めるしかなかったのだ。もっともFRBの神通力にも限界があり、その効果がいつまで続くのかは俄かに計り難い。

上記に掲げたのは19世紀の英国ジャーナリストで経済学者でもあったウォルター・バジョットと、数学者にして造幣局長官、そして最後の錬金術師とも言われたニュートン卿の言葉であるが、読者の皆さんも、150年経っても金融市場はたいして進歩していないのかもしれぬ、との思いを共有されるのではないだろうか。

たまたま一週間休暇をとっていたので先週の市場のナマの雰囲気はわからないが、株式市場は市場参加者も少ない中でまさにFree Fallといった様相を呈していたようだし、為替市場はその余波を受けてポジション解消に走るヘッジファンドのみならず「21世紀のミセス・ワタナベ」によるパニック的な円の買戻しも起きたと聞いている。

だがそれは地震で言えばどの建物が倒壊したか、どこの道路が破壊されたかといった現象面の報道に過ぎない。地震で最も重要なのはその原因分析にあり、余震や津波などへの波及を迅速に予想することに他ならない。そして危機対応システムに効果があったかどうか、その能力を測定することも大切だ。今回のサブプライム・ショックは、原因解明こそ簡単だったが、その波及経路の正確な予想は困難であった。そして、最も印象的だったのは、先端を走っていると言われてきた欧米市場のリスク対応能力にも大きな欠陥があることが暴露されたことである。

ヘッジファンド、証券化の評価損、CDS市場高騰、株暴落、そして中銀の大量資金供与、米国公定歩合引き上げ、格付け会社への批判といった各テーマでの分析は、既に読者も食傷気味だろうからここで反復する愚は犯さない。日銀の金利引き上げ断念、ECB・FRBの政策判断の差異、日本の個人投資家の資産価値急減、分散投資理論の幻想崩壊、VaR的管理方法の弱点露呈、システム売買論理の壊滅、短期借り・長期投資構造の揺らぎ、証券化における価値倒錯の発覚といったテーマにも個人的には大変興味があるのだが、ここではもう少しマネタリー・アフェアーズとしての視点に立って、金融システムと実体経済の格差という尺度から今回のパニックを眺めて見たい(因みに証券化技術の「マルクス的解釈」については、今週号の「世界潮流205号」で少しだけ私論を展開しておいたのでご参照乞う)。

◆ 虚実ギャップの拡大プロセス

議論を思い切り抽象化させてみるのでご容赦願いたい。この手の話は昔から「理論家」に嫌われるのでやや躊躇するのだが、頭の整理にはこうした技法も必要なので、敢えて今回もその手を使ってみる。それは経済実態をEとして金融市場の実態をFとする考察である。EとFとの差が拡大するとバブルになる、という当たり前のお話である。但し、筆者らの世代を含めた現代人はEとFが乖離する理由を問い詰める思考訓練を受けていないので、EとFが乖離する(つまり恒常的にFがEを上回る)のはむしろ当然だと思い込んでいる。

だが金本位制では、EとFの乖離は生まれなかった。むしろFがEを下回ることもあった。金本位制ではデフレになりがちだと言われるのはその所為である。それがすべての原因ではないが、結果的に米国はむしろFがEを引っ張り上げる方法を生み出していったのである。それがドル本位制とそれに続くデリバティブズ開発である。日本は(というよりも40歳までの筆者は)それを金融技術の側面でしか追ってこなかった。だがそれこそが軍事力だけでは覇権が維持出来ぬことを見事に悟った米国が編み出したFによるEの引上げ、すなわち「虚実ギャップ」によるEの引き上げ戦術だったのである。

いつものアナロジーなのだが、これは何となく政治の民主化プロセスにおける自由と権利の獲得競争に似ているような気がしてならない。民主主義は最高の体制ではない。民主主義が様々な狂気を生んだことは歴史が証明している。つい数年前の日本でも、それに近いことが起こった。それと同様に、民主化されて自由を手に入れた金融は、その自己増殖機能を遺憾なく発揮して、マクロ経済との接続を希薄化していく。あたかも劇場型政治手法を確立していくように。そして最後には、マクロ経済から自らを分離して、「金利が4%しかない時代にリターンが常時20%という幻想投資」、或いは「有限資産における無限消費」といった論理矛盾を孕んだ金融帝国を築き上げた、と皮肉っぽく見ることも出来る。

勿論、この表現は「今回のパニックにおける後付解釈」の謗りを免れ得ない。筆者が仮にまだ米銀勤務を続けていたならば、そうした商品の投資家セールスの指揮を取っていたかもしれないからだ。傍目八目とはよく言ったもので、現役を外れてはじめてアングロ・サクソンの築いた枠組みを客観的に解釈できるようになる。怪しげなユダヤ陰謀論とか帝国主義的征服論復活説とかの類に与するつもりはないが、少なくとも金融史的には、金本位制からドル本位制に移行し、裏付けのない貨幣に幻想を吹き込んで作り上げた金融システムの一部が綻び始めた寸劇の序曲を、いま我々は聴かされていることに気付くべきだろう。

◆ 虚実ギャップの功罪

虚業というのは日本の金融業界でよく使われる自虐的な表現であるが、欧米の金融経営者からそんな言葉を聞いたことはない。「モノづくり」が尊重される日本の中で、「カネづくり」を生命線とする金融界はまだ後ろめたい気分が抜けないのに対し、アングロ・サクソンはむしろ金融がマクロ経済を拡大させパレート水準の向上に役に立っていると自負し、金融自身が成長産業でもありまた経済成長のドライバーであることを公言して憚らない。この違いは、羨ましいほどに強烈である。筆者も現代金融技術が経済に大きく寄与した点は高く評価しているので、彼等の言葉の中に真実があることは否定しない。

だが、累積債務問題以降、定期的に市場を来訪する金融パニックの反復は、それを100%鵜呑みにすることが出来ないことを示していると言って良いだろう。EとFとの適度な乖離が我々の生活水準を維持してくれることは有難いのだが、Fの形態変化への盲目的な信仰がEの健全性を破壊する可能性があるとすれば、これは大変困ったものである。

今回のパニックは、「クレジット・バブル」という言葉で表現することも可能だが、そのバブルは不動産や株価と違って単なる価格水準の問題だけでなく、金融システムを支える精神の問題にまで及んでいる。ラスト・リゾートとして何を信じればよいのか解らないということに気付いたからだ。

先週FRBが公定歩合を引き下げて市場が安堵したのは、まだ金融市場にFRB神話が生きていることを証明したものであるが、Bernanke議長は現在のF形態がそのまま維持されることは望んでいないだろう。EとFとの距離感を計りつつも、金融政策の責任者として政策金利を下げるなどありえないというのが偽らざる心境だろう。

Bernanke議長は、Greenspan前議長が残した「負の遺産」のツケを払わされているという指摘もあるが、それはここ数年の間に起こったF形態の急激な変化を無視している。Eの健全性を保つ為に開発された筈のCDSや証券化というF形態の一部が、F形態の利益の為に変質してしまったことを見逃すわけには行かないのである。前議長は確かにF形態を重視するあまり、一部からはFの守護神たる利益代表に過ぎないと厳しく批判されてきたが、むしろEとFとの距離感を維持することの重要性を認識していたからこそ、現代金融精神を支える「信仰」の対象になったのだ。

やや議論が反れたが、虚実ギャップの存在自体を否定するような信用収縮や株価過剰調整はまさにEの状態を破壊しかねないものとして排除されねばならない。虚実ギャップはある意味で資本主義社会の存続の為の「必要悪」なのである。金融に一種の「卑しさ」を感じるのは解らぬでもないが、それは社会の平穏を保証された体制の中での平和ボケとたいして変わらない。金融が経済を持ち上げる力を過小評価してはならない。

その一方で、今回のパニックが示したように、E状態を無視するようなF形態の身勝手な進化にどのような歯止めを検討するかが問われる。だから規制が必要だという声が強まるのも無理ないが、下手な規制はE状態へのマイナス効果を生むことも多い。その意味で市場には本来、自力回復という機能が期待されているのだが、近年この力が異様なまでに低下しているように思えるのは気のせいだろうか。

何かあればFRBの助けを乞う。ひょっとして日銀が株の購入に踏み切ったが如く、FRBも事の深刻さの判断次第では、CMBSやCDOの購入といった離れ業を見せるかもしれない。だが仏の顔も三度まで、だ。いつか金融市場の自浄能力が無くなった時、現代金融はレバレッジや資産価格の客観性、通貨の信頼性など現代金融を支える信仰の脆さを再確認することになるだろう。今回のパニックに、その兆候を見たのは筆者だけではない筈だ。我々は、現代金融史の中で大きな曲がり角に立たされているかもしれないのである。

2007年08月24日(第153号)