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◆ 意図せざる結果

『商品の価値形態または価値表現は、飽くまで商品価値の本性から生じるのであり、反対に価値と価値の大きさが商品を交換価値として表現する仕方から生じるのではない。』<カール・マルクス>

今回、巨額損失を被った世界中の金融プロ達は、金融商品の価値とは何であるか、その幻想の虚しさをいましみじみと味わっているに違いない。それはまさに思わざる展開であり、意図せざる結果であった。「等価交換」とは何と怪しげな取引なのだろうか。

自分では意図していなかったことが結果として起きる、というのはよくあることである。日常生活でも仕事場でも或いは人間関係でも、特に例を挙げるまでもなく、意図せざる結果に驚くことは誰にでも経験がある筈だ。公理から論理的に導かれる厳格な数学体系においてすら、ゲーデルの不確定性原理が生まれて仰天するほどであるから、不確実な要素が複雑に絡まった世界において、意図せざる結果が生じることにそんなにびっくりもしてはいられない。

経済学でも「意図せざる結果」として有名な、アダム・スミスの「見えざる手」がある。資本家は、自分の利益を求めて「利己的な」活動に励む。市場経済の中でのそうした主観的な経済行為が、結果的に最善の経済秩序を形成していくという帰結を、意図せざる結果と呼ばずして何と表現すべきであろう。まさに経済社会とは複雑系に他ならないことを、スミスはあの当時に既に認識していたということが出来るかもしれない。今回の金融パニックなど、その意味ではまだ予測可能に近いものであったと言えよう。

それはともかく、スミスの分析の凄さはそれに止まらない、とマックス・ウェーバー研究者のひとりである東大の山之内靖教授は述べている。同氏は「主観的な領域における利己的な行為が、客観的な結果として社会的公共善を生むという逆説的な」議論展開こそが近代科学の基礎となったのだ、とスミスの業績を評価する 。

この思考インフラによって近代の社会科学は、倫理や宗教から切り離された市場メカニズムの研究に集中出来るようになったという訳である。つまり、経済社会における意図せざる結果はスミス以降の古典派経済学発展の礎となったのだ。またそれは、イデオロギーとしての道徳性なしに社会的メカニズムを追及するマルクスの唯物史観成立にも影響している。さらに敷衍すれば、その科学性への根拠は、20世紀の新古典派経済学や金融工学の発展にまで及んでいると考えても良いのかもしれない。

こうした「意図せざる結果」から拡張された思考形式は、現代の経済・金融問題を議論する時にもよく顔を出してくる。日本と米国の間に見られる貯蓄性向や消費行動の違い、或いは投資への考え方の違いなど、収斂するのが当然(収斂しないのはおかしい)と見る識者が多いのは、このような社会科学設立の、ある意味では無機質な根拠に深く根ざしているような気もする。

実際に個人的な或いは主観的な行動の結果、「意図せざる結果」が生まれて経済合理性が担保されるならば、時間が経てば日本でも米国と似たような経済社会行動が定着してきても良い筈だが、現実の経済・金融構造を見る限り、どうもその仮説は怪しい。むしろ現代社会においては、「意図せざる結果」は「不確実性の増大」として読み取るべきなのかもしれない。

◆ ウェーバーの場合

さて「資本主義」を徹底的に見つめたことではマルクス引けを取らないのがマックス・ウェーバーである、という見方に異論を唱える人は少ないだろう。マルクスは古典経済学を批判する視点から、ウェーバーは商業的成功を生んだ欧州の土壌を探る視点から、それぞれ資本主義社会を眺めていた。結果的にウェーバーはマルクスの唯物論を否定する結語をもたらすことになったが、本論の関心はそこにあるのではない。

ウェーバーは、カルヴァンの宗教改革による宗教精神が資本主義を呼ぶという仰天の逆説を、史実を基にして組み立てていった。数年前に日本の素人評論家が痛烈なウェーバー批判を行って日本でも大論争が起きたことは記憶に新しいが、本稿ではその事情は省略する。どんな論争があろうとも、金利を禁じたり金儲けを批判したりした宗教社会に資本主義が宿り、商業に熱心だった中東や中国にそれが発生しなかったのは何故か、という素朴な疑問に答えようとしたウェーバーの、あの「プロ倫」の重みは変わらない。

その逆説的論考の結末もまた、「意図せざる結果をもたらしたプロセス」の一つであると言ってよいだろう。カルヴァニズムの宗教倫理から生まれた世俗的禁欲と生活合理化が、資本主義を生む土壌となったことをウェーバーは示したのであり、それはまさにアダム・スミスの論考に通じるような、意図せざる結果としての「資本主義精神の」誕生という概念を表している。まさに、もう一つの「見えざる手」が資本主義の精神を生み出した、という文脈なのであり、ウルトラC級のパラドクスであると言っても良い。

ナザレのイエスが「富める者が天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言ったように、キリスト教の教説の中に何らかの経済的教訓が込められているということはまず考えられない。12-13世紀には、イタリアの高利貸しがキリスト教徒として埋葬されるのを拒絶されている。ダンテが描く地獄には、男色者や神を冒涜する人と並んで金融業者が罰を受けている。

だが、西欧の中世社会では、説教者の意図を超えた形で経済的行為が形作られていく。その逆説においてのみ、なぜ西欧に資本主義が生まれアジアや中東にそれが生まれなかったのかが示される、という論考には、少なからぬ異論もあるようだ。だがそれはウェーバーの言う「世俗的禁欲」を、日本流の節約・倹約主義と解釈する為に生じる誤解からくるケースが多いと山之内教授は述べている。その辺の議論も面白そうだが、ここでは省略して先を急ごう。

さて、営利的な経済行為や富の個人的蓄積をよしとしない宗教倫理の中でこそ資本主義が発達していくという逆説においてウェーバーが示したかったのは、そうした「意図せざる結果」の顛末でもなく、また西洋合理主義の勝利宣言でもなかった、と山之内教授は述べている。何やら、通説でいうところのウェーバー理解とはやや異なるようだ。

大学生時代の筆者にとって「プロ倫」といえば、カルヴァンの影響で資本主義が育ったという文脈で示された、現代経済社会における西洋合理性の卓越性という程度の認識でしかなかった。だが山之内教授は、むしろマックス・ウェーバーの意図は実はニーチェの系譜を受け継ぐものであるとして、西洋的合理性の勝利ではなくそれが必然的にもたらす宿命的な不確実性への嘆き、或いは経済と宗教の間に生まれる「和解不可能な緊張と対立」への運命的な苦悩への諦観といった想いが込められていると見るべきだと述べている。これがウェーバーの説いた、新たな「意図せざる結果」の側面なのだ、と同教授は言いたげである。

◆ 21世紀の不確実性

非合理な教義が、意外な合理性を生む。それが「プロ倫」の世界であった。だがウェーバーは晩年の作品で、その徹底的な合理性が皮肉にも自己破壊的結末を招く、という見方に辿り着いていく。山之内教授はその思想がさらにフーコーに受け継がれていく、という見取り図を示して従来のウェーバー解釈に一石を投じている。

その理論展開はともかく、ウェーバーの持病であった神経症の内面を手掛かりに、プロテスタントという宗教的側面からの帰納としての資本主義の精神が、その意図せざる結果の行方として、さらに逆説的に不確実性或いは自己破壊性に憑依される、という解釈が何より印象的だ。ウェーバーは、合理化徹底が浸透するが故に苦難が普遍化されるという「近代の呪われた運命」を読み取っていたのである。

この思想は、現代の資本主義社会が大きな暗雲に覆われ始めたことを既に先取りしていたと言っても良いかもしれない。資本主義の精神を打ち立てたカルヴァンによる世俗的禁欲は、資本主義的世界観を牽引する現代の経済社会の中でもはやその姿を再確認することは出来ない。西欧経済社会は、その教義とは全く正反対の、富の蓄積や消費の拡大を是とする通念を動力として成長を遂げてきた。勿論、大富豪になると必ず社会に寄付を行うというその行為には、ピューリタンのDNAが受け継がれているとも言えるが、現代の金融市場を支配している人々にとって、もはや世俗的禁欲という概念は死語であろう。

ウェーバーが明示的に述べているかどうかは浅学にして知らないが、その宗教観を通じて彼は、資本主義精神のみならず「資本主義経済」に対しても、一種の自己破壊性を感じていたのかもしれない。意図せざる結果は、一度では終らないのである。これは、前々回に述べたウォーラーステインの思想とも重なるものだ。個人的富の蓄積を是とする現代的資本主義の精神が、その富を自壊させるシステムを自製していないと、誰が言い切れるだろうか。安定した成長を望む筈の資本主義的金融システムが、成長を阻害するエネルギーを蓄積していないと、誰が断言できるだろうか。

現代マネー社会には、大きな構造変化が訪れようとしている。特に欧州金融市場は、遅れていた経済成長ペースを取り戻すべくファンドを中心とした米国型金融システムを急激なスピードで導入してきた。それは成長率の復活といった点で、確かに結果を生んでいるように見える。だが、そこでは企業金融から銀行が締め出されるという「意図せざる結果」も見え始めている。そして今回のようなパニックが起きた後、それが何を生むのか、まだ誰にも想像できない。

勿論、「意図せざる結果」はいつも悪いものとは限らない。それが複雑系の優れた面でもある。不確実やリスクという言葉に機会という意味があるのは、その複雑性によるところが大きい。それが、不作為が罪に問われる根拠でもある。

但し、資本主義が西洋的合理主義の産物に過ぎず、そしてその合理性が自己破壊を生む土壌を持つ可能性があるとするならば、徒に欧米経済や金融のシステムに追随することなく、その「意図せざる結果」の帰結に対して充分な観察力と分析力を持つことが、出遅れた我々に残された、たった一つの処世術なのかもしれないのだ。

2007年09月07日(第154号)