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◆ ローン流動化と共同体意識
◆ 資産流動化再考
以前に、なぜ日本の金融機関で融資資産などの債権流動化が進まないかという疑問に対して、「均衡に美を求め余剰を嫌う」日本の特質という、やや抽象的ではあるが少し金融市場とは異次元の座標から議論を試みたことがある。「余るものが生む流動化」(BMA122号:2006年5月12日)と題したその小論には、幾つか興味深いコメントを頂いた。だが、リスク資産流動化システムが働かない理由は、他にもっとある。サブプライム問題で資産流動化がやや否定的な面から捉えられるような気配も感じられるが、流動化そのものは依然として重要な金融概念であることに変わりは無い。
日本の金融特殊性を、単に現在の欧米市場とのスナップショット的比較論で説明しようとしても無理である。ジャンクボンド不在にしても、間接金融比較優位にしても、そして金融機関の収益力の低迷にしても、歴史観や文化論を無視して語ることは出来ない。何故日本の金融力は弱いのかといった深遠な命題を、雑談の中で論じても詮無いことである。今やもっと真剣に、日本金融の弱さの原点を掘り起こすべき時期であろう(その弱さが、実は強さの裏返しだったりすることも、ひょっとしたら、あるかもしれない)。
そうした大上段に構えた話はさておき、最近の欧米市場でのクレジット市場の動向を見るにつけ、良くも悪くも、グローバリゼーションが常態化する中で彼我の違いがここまで加速度的に広がってきたことに、一種の驚きを禁じえない。やはり日本の金融システムは特殊なのだ、と割り切るべきなのだろうか。今回は、あらためて債権流動化を「市場交換取引(つまり債権と現金の市場価格での交換)」として捉え、それが何故日本で活性化しなかったのかを、前回とは違う観点から論じてみることにする。
本論に入る前に、少し「市場交換」の意味について考えておきたい。我々は、金融システムの円滑化や銀行本体の経営健全性の意味で、集中リスクを排除するためにリスク資産特に銀行ローンの流動化メカニズムが必要だと主張してきた。そこには同時に、交換取引として利用される市場において、取引価格(お金の値段)の透明性が担保されるという期待感も込められていた。
その際に参考にしたのは、1990年代の米国LBO市場におけるシンジケートローンであり、バンカース・トラストが編み出したクレジット・デリバティブであり、また住宅ローンのオフバランス取引として誕生し拡大した証券化商品であった(これはリスクテイクが行き過ぎて破裂した)。日本の銀行界では、昔からPS/PBと呼ばれる債権譲渡取引があった。所謂Participationである。これもまた、再分配スキームの一つではあった。
債権譲渡も債権売買もリスク移転もみな同じ取引を異なる側面から呼んでいるものなので、どれを取っても良いのだが、何故その取引を行うのかという意味を意識する為には、やはり「市場交換」という言葉が適切だろう。市場交換には、価格のイメージや再分配というニュアンスに加えて「当事者の明確な意識の存在」が含まれているからだ。
だが債権流動化を銀行の立場から見ると収益の減少になる。金融庁から格付け会社、株主そしてメディアに至るまで、ありとあらゆる外野席が銀行の低収益性を指摘する中で、収益源をみすみす他の銀行に受け渡すお人好し経営者はいない。日本の銀行は、市場交換の論理と理念を評価しながらも背に腹は代えられず、交換を無視して粛々と融資の積上げに精を出すことになる。
◆ 共同体の論理
従って、日本で市場交換の動きを堰き止めているのは、利益力がないとして銀行を責めてきた当局であり、また世論である、といった批判的観察も可能となろう。公的資金を注入して以来、金融庁と世論は結託して金融力の本来的再生を阻害してきたとも言える。そして、銀行経営にはそれに反発する気力もなく、またその方が戦術的に気楽であったが故に、低金利での融資争奪戦に向かって戦線復帰したのである。
従って、こうした反動を許す金融土壌或いは金融風土そのものにも批判の眼を向けるべきだろう。日本の銀行界には市場交換という行為を積極的に評価するという意識がどうも薄いような気がするからだ。市場交換は、経済行為の一つとして分類することが出来るが、もしかすると日本の金融には、そうした思想が経済概念として定着していないのかもしれない。
さて筆者の頭では、議論はここで立ち止まる。この先に進むためには、先達の知識と智慧を借りる必要がありそうだ。本稿でもまた、マルクスの天才を借りることにする。
交換は共同体の中では成立せず、共同体と共同体の間で初めて成立する、という経済的命題を発見したのはマルクスである。この考えに従えば、銀行債権の売買がなかなか成立しないのは、つまり市場交換としての債権売買が活性化しないのは、日本の銀行が一共同体の中で稼動しているに過ぎないからである、と言えるだろう。
日本の金融機関は所詮共同体意識から抜け出せていないのだという推論に基づけば、銀行債権が市場交換されるには、銀行が共同体意識を捨て去るか、若しくは銀行界という共同体とは別の経済論理を持つような外資系証券や投信業界などの異なる共同体との間で取引が行われるような環境か、のどちらかが必要なのである。
為替はもともと各国間の市場であったから、そこでは市場交換が当然のように生まれた。株式も、世界中の投資家が世界中の株式市場で売買するようになり、日本株も欧米機関投資家による取引が急増した為に、市場取引量は飛躍的に伸びた。だが銀行ローンの世界は全く異質な世界であり、依然として他の共同体と接点を持たない「閉じたビジネス系」である。
日本の銀行界には、全銀協やJSLAがいつまでも結論が出せない、債権譲渡制限という問題がある。これは、銀行と異質の貸し手に債権が譲渡されぬように、との「配慮」から、他の共同体との接触を断つという判断なのである。これで市場交換が成立するようならば、墓の中でマルクスも仰天することだろう。
日本の金融界は、市場交換が成立し得ない条件と認識の下で、本来起こりようの無い市場交換の成立を目指して無益にもがいているのかもしれないし、あるいは確信犯として流動化の理念だけを掲げているだけなのかもしれない。
◆ 再配分との調整
金融庁など金融当局も、銀行界がそうした他の共同体との接点を認めないことに大筋賛同している。市場交換が進んで、借り手の前にいきなり見知らぬ債権者が現れて貸した金をすぐ返せなどと言われようものなら、メディアが黙っては居ない。消費者保護を謳う当局にとって、他の共同体との間での市場交換など認める訳にはいかないのだ。
だが、当局にはまた別の考えもあるのかもしれぬ。それは、「市場は見えていなければならない」という発想だ。彼等にとって現代経済原理たる「見えざる手」は建前的には歓迎すべきものとは言え、本音では見えぬものほど怖いものは無い筈である。「見える市場」であれば管理は簡単である。昨今の欧米金融当局によるヘッジファンド規制問題も、これと共通根を有するものである。サブプライム問題でこの意識はさらに強烈になった。
この辺りの議論には、以前BMA134号で紹介したポラニー(「大転換」:1944年)における思考も役立つかもしれない。ポラニーは、社会における財の移転形式を「互恵」「再分配」「家政」、そして「交換」という四つの原理に分けて説明する。共同体の中では前者の三つが行われ、「交換」は他の共同体との接点で生まれるという認識は、明らかにマルクスから出発したものだ。
この考えを適用すれば、日本の銀行システムは一つの共同体として「交換」様式を持たない経済行動に依存しており、そこではリスク資産の市場交換は発生しえない、と描写することが出来る。それは、国家自身の利益でもある。何故なら、国内的に市場交換が拡大して国家の再分配機能を超えるようなメカニズムが出来上がれば、独自の経済システムが壊れかねないというリスクを負うからである。市場が「見えている」限り、管理の負担もコストも低い。
国家の権威は、再分配機能によって維持されている面がある。例えば、冨の再分配という面では、税金徴収と交付金供与を通じで格差を縮小するのが国の役割でもある。政府は、共同体の長としてこうした再分配の能力を維持しておく必要があるのだ。高金利という攻撃材料を下に消費者金融業を潰しにかかったのも、おカネの市場交換という猛烈な勢いが、国家による格差是正努力を蔑ろにするという考えが背景にあったのではないか、と邪推の一つもしたくなる。
日本の行政にとって市場交換とは「楽市楽座」程度が望ましいのであろう。特に銀行債権に関してはその傾向が強いと見てよい。従って、銀行債権流動化という行為は、再配分機能の消失を恐れる当局と、他の共同体との接触を拒む一共同体としての銀行界の利害が一致している限り、残念ではあるが、ほぼ永遠に日本には定着しない取引だと見るべきかもしれない。そしてそれが銀行という産業の未来を縁取る、大きな制約条件となるのは言わずもがな、であろう。