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◆ プット・オプションの幻影

◆ リアル・オプションの「真実」

一時、「リアル・オプション」という概念が流行ったことがあった。金融資産のリスク計算を、実物資産やプロジェクト・コストの試算に応用しようといった考え方である。経済産業省の研究会に呼ばれて何だか難しそうな計画の手伝いをさせられそうになったが、一度会議に出席してみて馬鹿馬鹿しくなって委員を降りたことがある。オプション自体の理屈や存在意義が怪しいのに、それを実物やプロジェクトに展開するなど有り得ない話だと思ったからである。

意思決定に定量評価を加えるのは当たり前の話であり、それがリアル・オプションだなどと言われれば、今では誰でも首を傾げるだろう。だが当時、計画の延期や中断、撤退、軌道修正、進捗といった判断にオプション計算を用いることが、従来のNPV計算よりも経営判断の質を高めるのだ、といったコンサルタントの意見が尊重されていた。だが具体的な計算方法になると、トーンが急落するのが常であった。 

オプションが金融市場で貴重な価値を維持しているのは、ドル紙幣や円紙幣と同じで皆がそれに価値があると思っている、或いはそれ以外に方法がない、と思っているからである。前に触れたように、1万円札がスーパーで使えるという確信の下に1万円札が流通するのと同様に、債券オプションやCDS(これもオプション)も誰かに転売出来るという確信の下に、重宝されているに過ぎない。

オプションのリアリティとは、貨幣のリアリティに繋がる「幻影を巡る議論」なのである。リアル・オプションとは誰が名付けたかは知らないが、プロジェクト判断にオプションを利用するというのはその本質を無視した表層的ソルーションなのであった、と言えば言い過ぎかもしれないが、筆者はオプションをそれくらいに取扱いの難しい商品だと認識している。ブラック・ショールズ公式は根を詰めれば理解できるが、オプションの本質を見抜くのはそれ以上に難しい。

オプションの具体的計算は、共同体の中でしか通用しないのである。それを普遍的原理として実物一般世界に適用させようとする試みが普及しなかったのは、当たり前の話であろう。新しい学問領域探しのために一部経済学者が始めた超テクニカルな金融工学ブームと同じルーツにあるのは明らかであった。

だが、オプションの概念自体に少なからぬ「使用価値」があるのは事実である。プレミアム計算の具体的方法よりも、むしろその売買の意味にこそ、オプションの価値がある。オプションを抽象化させることにより、昨年来、世界を揺るがしているサブプライム問題における金融経営を描写することも可能である。

もっと大雑把に(かつ、やや突き放して)言えば、個人の進学や就職や結婚が、そしてそもそも人生そのものがオプションみたいなものである。楽天家はコールオプションを買いまくり、悲観論者はプット・オプションを買い続ける。プットの買い手は起業に向かないというのは解り易い事例だが、コールだけ買っている楽天的経営者の手元に何も残らない可能性があるのも事実だろう。

◆ プット・オプションだらけの世界

ローンや社債の購入がプット・オプションの売却に等しいことは、既に5年前に上梓した「金融市場は謎だらけ」という本の中で詳説した通りである。CDSを売ってリスクテイクすることが、プロテクションの売りというオプション売却で示されるように、実は負債市場に資金を投じることはプット・オプションの売却に等しい。一方で、株式投資がコール・オプションの購入に等しいと考えるのはそれほど難しくないだろう。

格付けが高いほど、Out of the Moneyの強いプット・オプションであり、プレミアムはどんどん薄くなる。それを、量的に増やして受け取り絶対額を稼ぐのが銀行の仕事であり、それに歯止めを掛けようとしたのがBISルールであった。金融市場は、コール・オプションの買いポジションで埋め尽くされているような錯覚に陥ることがあるが、実はプット・オプション売り持ちだらけの業界なのだ。金融恐慌の反復が避けられないのは当然のことである。

プット・オプションを売った場合のトリガーは、国債市況急落で1.8%水準のターゲット・バイイングがすべて行使されるのと同様に、何らかの市場構造変化によって顕現化する。日本でそれが鮮明になったのは、不良債権時代であった。当時は不動産に対するプットの売りが邦銀に山積みされていたのである。無防備なオプション管理が、即座に全国的に白日の下に晒されなかったのは、それが拙いオプション戦略の敗北であるとの認識が官民ともに薄かったからであろう。

クレジット市場に関わる銀行や機関投資家の失敗は、すべてこのプット・オプション管理能力に繋がっている。1970年代の中南米累積債務問題も、1980年代の米国LBO・S&L破綻も、1990年代のアジア危機も、2000年代のITバブル崩壊も、それぞれ違うタイプのプット・オプション戦略の破綻であった。そして昨年のサブプライム問題も、全く同じ構図であることは明らかだ。

プット・オプションは、金融にとっての天敵のように見えるが、プット・オプション無しに、金融業界は存続し得ない。従って、この惨劇の反復を繰り返さぬ為には、プット・オプションの総量を規制しなければならない、という発想が出てくる。或いは銀行主義を放棄し通貨主義に戻って通貨総量を規制するか、トービン・タックスのようなオプション課税を導入して取引を抑制する方法を主張する人も出てこよう。

だがこうした規制は基本的にはデフレ効果をもたらすものであり、インフレ歓迎の現代社会の多数意見にそぐわない。従って、オプションが放置される限り、今後何回も違うタイプの金融破裂が繰り返されることになるだろう。これが、金融工学が唯一説得力を持って、一般社会に主張出来る結論である。

◆ プットのトリガー再考

そもそもプット・オプションを売るだけならば、手許に現金は必要ない。銀行がカネを貸す行為は、金利というプレミアムを得る為に売却したプットを象徴しているが、そこには現金引渡しという担保提供に似た別の行為が附帯している。オプション座標から見れば、担保付銀行貸出とはオプション担保の提供と引換えに見返り担保を要求するという変テコな取引である。

そうした商いがバランス・シートに表現され、BISはその金額をリスクウェイト付けして管理することを要求している。それは自己資本比率と呼ばれるが、実態的には一種のオプション総量規制である。

だがこのオプション総量規制は、結果的にウブな銀行だけを縛るものになった。リスクモデル開発やSIVのように抜け道を作ることは簡単だった。そして実態的に預金を取らないノンバンクやファンドは総量規制から外されており、限定的な部位しか対象としないBISルールは、個別銀行の健全性を高めたものの、金融システムの強化には無力であることが露呈されたのである。BISルールは上手く機能していると金融界のお歴々が盲信していた間に、世界経済は量的にそして質的に想像も出来ないくらいのプット売りポジションに囲まれてしまったのである。

ファンド規制が現実的に難しい中でこの議論を悲観的に進めていくと、結局は通貨量を抑制しなければならない、という主張へと繋がっていく。プット・オプションの議論とは、マネー総量の問題に他ならないからだ。なあんだ、という印象も強いだろう。だがここで言いたいのは量的規制ではなく、プット・オプションとしてのトリガー・レベルの問題である。

オプションにはストライクがある。プットが行使されるのはそのストライクがヒットされる時点であり、そこから恐怖の評価損が始まる。現在の恐怖心でいえばサブプライムのクレジット・トリガーであるが、周囲を見渡せば、不動産市場のプロパティー・トリガーや新興国経済のエマージング・トリガーなどの市場性トリガーに加えてM&A市場のファンド・トリガーや金融機関経営のマネジメント・トリガー、果ては米国金融信認におけるバーナンキ・トリガーまで想定される。

これらは全部プット・オプションである。残念ながら、インフレ時代への突入により「グリーンスパン・プット」の購入によって金融社会がオプション損失を限定出来ると期待した時代は終わりを告げた。そのプットのコストはもはや高すぎるのだ。プットの買戻しが出来ないならば、契約変更でストライク・レベルを下げてもらうしかない。結局、現在の金融社会が売却しているプット・オプションのストライク設定水準が甘すぎたのである。

プットのストライクは、社会の安全基盤やセーフティ・ネットの議論にも似ている。足元を見れば底板一枚という不安感は、安全地帯に慣れた人には解らない。筆者が12年前に邦銀から米銀に転職した時、この恐怖感に一時足が震えたことを正直に述べておこう。プットのストライクなど、磐石だなどとは決して信じてはいけないのである。

中銀筋がよく使う「資産のリプライシング」の必要性とは、まさにこのオプションの条件改定を意味するものでなければならない。世界経済全般の中で、プット・オプションのストライクは体力に見合わないレベルに設定されているからだ。だが金融市場は「資産のリプライシング」ではなく、時間を稼ぐことで金融体力がストライクに見合う水準に回復するのを待とうとしているのではないか。

確かにオプションにはタイム・ディケイがあるが、金融市場が売却しているプットは、次々にロールされるパーペチュアルであり、時間価値のメリットは享受し得ない。オプション的世界観において必要なのは、オプション総量規制や時間稼ぎではなく、コストの高いプットの買い戻しでもなく、トリガー引き下げでしかない。それには、まだ多くのコストがかかりそうだ。2008年にそうした処理がすべて完了するという保証はない。

2008年01月11日(第162号)
 
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