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◆ バブルの必然性と成長の限界

◆ デ・ジャヴの日々

一昔前の音楽ファンなら「デ・ジャヴ」といえばクロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤングの名アルバムを思い出すだろう。四つのかけ離れた個性が織り成す不思議な調和は、その瞬間にしか完成し得なかった貴重な座標を捉えていた。彼等が何を「既視感」と感じたのかは知る由もないが、音楽家の心にも、どこかで視たような感覚に誘発されて創作に向かいたくなることがあるのだろう。

デ・ジャヴは年寄りの特権ではない。若い世代でも無縁ではない筈だ。どこかで見た風景や光景だけでなく、どこかで聞いた言葉やどこかで感じた切なさや苦しみが、既視感とともに蘇ることもあるだろう。金融市場という狭い世界でも、デ・ジャヴは起きる。極端に言えば、市場の変遷とはデ・ジャヴの繰り返しのようなものでもある。そしていま、サブプライム問題で、いつか見たバブル崩壊の光景が繰り返されようとしている。

筆者がバブルという言葉をディーリング・ルームの中で初めて聞いたのは、1987年に日本国債の指標銘柄が当時2.5%だった公定歩合に接近する2.55%にまで買い上げられた時のことである。「債券バブル」と呼ばれたこの熱狂的水準は、現在から見れば随分穏やかなレベルではあるが、当時は、役員からこのバブル的プライシングの根拠を説明せよ、と問い詰められて四苦八苦するような喧騒の地合であった。

その後、社会の至る所にバブルが存在することを知る。不動産もバブル、株価もバブルである。だが同時に、人間経済の歴史もバブルの反復であった、とガルブレイスの書物で教えられた。経済史とは、チューリップの球根や南海泡沫会社だけでなく、様々なバブルが弾けてはあたふたと修繕に向かうプロセスの連続である。戦争と政治を中心に語る歴史が、その学習効果の効かない愚かな人間史に蓋をしてしまったために、あたかもバブルが現代的な現象だと錯覚しているに過ぎないのである。

日本では「国債バブル」に塗れて以来、資本主義のバイブルに沿うように、不動産バブルと株価バブルを経験して暗黒の「失われた15年間」に突入した。一方で米国は、バブルが弾けても次なるバブルを上手く作り出して、日本のような暗黒時代を回避してきたのは周知の通りである。不動産、株価、IT、そして不動産といった循環を繰り返しながら、今では新興国やコモディティ、環境技術といった新しいバブル候補を生み出して、綱渡りを続けようとしているが、どうやらその戦略にも躓きが見え始めている。

太平洋の彼方に、デ・ジャヴを感じる。筆者なりのその原型は、日本の不良債権時代である。米国にゼロ金利の日は来るのだろうか。米国が自信を無くして「失われた数年間」を迎える時代が来るのだろうか。米銀が国際業務を縮小する日が来るのだろうか。そんな馬鹿な、と一笑に付されるかもしれないが、想像もしないことが起きるからこそ、人間社会は性懲りも無く後世に面白い歴史を残し続けることが出来るのである。

◆ 成長とバブル

以前どこかで書いたかもしれないが、切れ者と呼ばれた役員との食事中に「なぜ日本は豊かになったのか説明できるか」と聞かれて、上手い飯が急に不味くなったことがある。お前流に日本がGDP世界第二位になったことを説明せよ、という意地の悪い、だが、経済成長という空気のような概念を鋭角に抉り取るとても本質的な質問であった。

日本人が優秀だったから、という小学生のような話が出来る訳も無く、明治維新で欧米にキャッチアップする素地が出来ていたから、という表層的な回答も落第であることは間違いない。工業化が進んだのは結果を支える一つの現象でしかなく、なぜ工業化が進んだのかをウェーバー的に倫理や精神から説明できるほどの能力もない。せいぜい米国のお陰で軍事費を使わずに済んだから、という程度の答えしか思い浮かばなかった。

先般、件の主に久々に再会したので15年ほど前のその会話を持ち出して「あれ、覚えていますか」と聞いたら、ああ俺も解らんから聞いたのだけど君にも解らんようだったな、と笑っておられた。正直に言えば、エコノミストでもない私には今でもきちんとした回答が出来ないが、米国という巨大な消費吸収市場が日本製品を受入れてくれたことが大きな成長要因であったのは間違いないだろう。

そして消費のメイン・ターゲットは今や中国などの新興国へとシフトしている。資産市場を追い風にして消費を追いかけるのがアングロ・サクソン流の成長源である。中国が一巡したら次はアフリカだろうが、その次はどうなるのだろうか。アンガス・マディソン氏流に言うならば、1820年以降の世界成長構造はいずれ停止することになる可能性もあるだろう。だが、米国はその仮説を頑として受入れない。

現代は消費社会と言われる。その消費マインドを支えるのは、所得の現在価値である。そこには所得の将来価値の割引分が期待値として埋め込まれている。大雑把な議論ではあるが、米国住宅バブルの状況下では、期待値の方が大きなシェアを占める計算になっていたのだろう。金利要因を超えた期待値とバブルは同義語である。金利計算を超える消費は、バブルの存在・期待無しには有り得ない。米国経済の凄いところは、それを当たり前の論理として受入れているところである。

従って、一つのバブルが潰れれば次なるバブルを生み出すことに、心理的な抵抗があるどころか、それを社会が歓迎する仕組みが定着している。日本の倫理社会はこの点で落差があるため、米国経済方式を受入れにくいところがある。1980年代の不動産バブルに懲りて、二度とバブルを生まないように慎重にその芽を摘み取っているのが日本である。

日本は、消費者金融や建築業界、或いは食品業界などに対し、魔女狩りのようにバブル以前の小さな兆候まで蹴散らして、見事なまでのデフレ社会を構築していった。株価が上がらぬのは当たり前である。だが筆者は、だから日本はダメなのよ、という論調を必ずしも支持するものではない。逆に、日経平均12,000円など買い頃だろう、などと欲も出て来る。

◆ 日本の先見性

逆説的だが、日本にも様々な先見性があるのだという勝手な仮説を使えば、デフレ社会の構築や昨年来の株価低迷は、日本が世界の先端を走っていることの証明だということも言える。バブルを嫌悪し、バブルを否定し、経済成長はこの辺でOKという諦観と納得の混じった感覚は、現代米国には理解出来ないかもしれない。成長主義者からはボコボコにされそうな議論であるが、バブル無しには成長不能という命題を前にして、日本の姿勢が一つの将来的選択肢を示しているのは事実だ。

マルクスを蒸し返すつもりはないが、マルクスを忘れてはならないとも思う。筆者は市場主義者であるが、消費主義者ではない。金融やメーカーなどビジネス界の重鎮の言葉が世界経済の座標軸であるとも思わない。日本が米国によって成長の恩恵を受けたことは否定出来ないが、だからといって米国経済社会をモデルにすべきだとも思わない。消費活動を中心に置く経済学は、今の中国には必要だがこれからの日本には馴染まないだろう。

途上国での消費の活況は生活水準の向上過程であるが、先進国での消費拡大は何らかのバブルと共存するしかない。バブルは、享楽と恐怖の両面を胚胎する罪深い存在である。バブルを前提とせざるを得ないのが現代資本主義だ、と割り切る人もいるだろうが、その場合にいう資本主義とは誰の為の制度なのだろうか。

米国のサブプライム問題が社会的深刻さを増すにつれて、暗くて辛かった日本の不良債権時代を思い出す。日本が中国への輸出増で徐々に明るさを取り戻したように、米国も数年後には大幅に切り下がった為替レートをもとに中国などへの輸出で不均衡を脱し、より健全な姿で回復するだろうが、その過程では日本が味わったのと同じような屈辱を感じることもあるだろう。だがもっと興味深いのは、彼等がそこでバブルの存在をどう再評価し再認識するのか、である。

日本のようにバブル忌避に向かうのか、新たなバブルを作り出すのか。それはこのサブプライム問題に端を発した混乱がどの程度の影響を及ぼすかによって変わってくるようにも思う。したたかに、バブル資本主義が復活してくる可能性は高いだろう。新たな戦争で需要創造に向かうこともあるかもしれない。だが、米国が大きく変身する可能性も無い訳ではない。

「ドルは我々の通貨だが、あなた方の問題だ」と言い放ったのはニクソン政権時のコナリー財務長官であった。だが、今や世界に散布されて邪魔者扱いされ始めたドルは、米国の問題になりつつある。過剰流動性とバブルの相関は、誰しも認めるところである。そこにメスを入れることが出来るのは、米国だけである。19世紀の通貨主義・銀行主義論争が、まさに「デ・ジャヴ」のように復活してくる、といったシナリオもあるかもしれない。米国からは、やはり目が離せない。

2008年01月25日(第163号)
 
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