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◆ 上場企業社会のコスト増

◆ TCIとJパワー

ある経済専門の某大手新聞社の記者から、Jパワーとその株主であるヘッジファンドのTCIとの「戦闘」をどう思うか、という電話がかかってきた。アクティヴィストの洗礼を受ける日本の古い企業体質、という構図で記事を書きたいのだろう、と勝手な推測をして、TCIのようなファンドはあまり興味がないので、とお断りした上で、企業が上場する意味の方が問われているのではないですか、と茶化して逃げた。

英系ファンドのTCIは2005年、ドイツ証券取引所の株主として「ドイツの古い体質」にチャレンジし、当時の政権に「イナゴの群れ」と言わしめたファンドである。昨年は、ABNAMROの分割譲渡への契機を作ったことでも知られる。一昨年前に上梓した拙書でも触れたが、TCIはアクティヴィストとしてかなり強烈な個性を持つとともに、収益の一部を慈善事業に寄付する一面も持つ。

The Children Investmentsという名前からも解るように、恵まれないアフリカなどの子供らの為に利益を追求するというのがその看板であり、その理念に共鳴する人々も多いようだが、正直言って過去の投資手法を見る限りはそんなに高尚な投資集団とも思えぬ、というのが筆者の実感である(勿論、高尚な投資集団である、という可能性は皆無ではない)。

TCIは前電源開発のJパワーに対し、役員受入れなどを要求したが拒否され、20%までの買い増しを狙って事前届出を出している。経産省は早速、横槍を入れる方向での対応をちらつかせているようだ。TCIを支持する人々は、彼等の提案が日本の長期的エネルギー戦略に相応しいものだと言う。筆者にその内容の優劣を判断する能力は無いが、一国の長期的なエネルギー戦略など、海外の一投資家が描けるような代物でないことくらいはわかる。株価吊り上げ作戦の為の祝詞など、如何様にも書けるものである。

いま、空港会社に関しても外資を歓迎するか警戒するか、で政府内の議論が花盛りである。自民党国土交通部会と航空対策特別委員会は、空港会社への外資規制導入など盛り込んだ空港整備法改正案に反対する姿勢を見せている。市場の理屈で言えばオープンな市場を主張するのは正しいだろう。だがロシアや中国などの反自由主義的な覇権国家の資力を前にして、いつまでその方針を支持し続けることができるだろうか。

アクティヴィストと呼ばれる投資家の一部が資本の論理を穿き違えていることは、以前にも村上ファンドやスティール・パートナーズ批判の際に書いたので繰り返さないが、そうした投資家を市場からシャットアウトすることが市場の論理に沿ったことであるかどうかは、また別の議論である。本音を語らないSWFに対しても、同じことである。一般論として、上場企業の株式の購入を恣意的に制限することが「市場主義」に反することは明らかである。つまり問題は、その市場主義のあり方に集約される。

Jパワーは、国策会社として設立された「電源開発」が電力自由化を見据えて2004年に民営化された会社である。国策会社を返上して上場したならば、理屈として言えば市場主義のルールに沿うべきだろうが、経済産業省の気持ちも解らんでもない。電力は一国経済の源であり、その戦略は海外投資家ではなく日本政府がコントロールすべきものであるからだ。つまり、現在の問題の発端は、時代遅れの新自由主義派による「何でも民営化、公開化」の間違いである。これは、郵貯民営化における将来的な問題を暗示する要素でもある。

◆ 上場企業はつらいよ

前述の通り、原則論としては上場したからには企業は株主を選べないのが市場のルールである。娯楽店や飲食店のように「XXお断り」と看板を出す訳にはいかない。株主に対して企業の都合の良い品性や品格を求めたくなる気持ちも解るが、市場社会はそういう設計にはなっていない。資本市場とは民主主義的世界であり、オープンな市場は民主制の弱さをそのまま抱え込んでいるのである。

あのヒトラーも、民主的な国民投票において90%という驚異的な支持率を獲得して国家元首に就いたのである。民主政治の限界は明らかであり、中国や中東に民主制度が根付かないのもそれなりの理由がある。民主的な市場社会にも限界はあるのだ。一億総クレーマーと呼ばれる現代日本社会の病状も、その一つの投影であろう。

市場公開した企業も、現在の市場ルールの下では、そういう覚悟が必要だ。どんなに株主が嫌いでも、その要求を整然とした理由無しに無碍に一蹴することは許されない。株主の要求がどんなに的外れであっても、きちんと受け止めて回答せねばならない。一昔前の教師のように、「君は馬鹿か」とか「もう一度テキスト読んでから出直せ」などと言おうものなら、世間からのバッシングは火を見るより明らかである。

経験則で言えば、おそらく上場企業に寄せられる株主からの苦情の8割は読むに耐えないものである。株価が低迷している現状では、10割近いかもしれない。確かに、折角株主になって頂いても株価が下がって評価損、売却損に直面されている状況を考えれば、怒られて当たり前である。今の日本企業には改善すべきところは多々あるだろう。怒られるのは仕方ないが、苦しみぬいた末の経営方針や投資方針まで否定されるのはかなわない。

ビジネスは、「する」のと「見る」のでは大違いである。これはスポーツや芸術と同じであろう。当事者の苦しみは観客には解らない。経営者の苦しみも、実務経験の無い投資家には解らない。筆者が「再生ファンド」を信用しないのも、所詮はコスト削減や財務改善くらいしか出来ない投資集団の限界を感じているからである。机上の勉強で事業の本質など解る筈もない。

だが、「一億総クレーマー」よりも手強そうな「一億総アクティヴィスト」の株式市場では、上場企業は株主に対して民主的でなければならない。国内投資家よりももっと辛辣な海外投資家までがやってくる時代である。円安・株安で日本企業は随分安価になっている。日本の上場企業は、アクティヴィストにとって絶好の狙い目になるかもしれない。だがそれを拒むことは、定義上、市場主義を否定することになるのである。

アクティヴィストの行動には眉を潜めたくなる部分があるのは事実であり、興味が無いというのは筆者の本音でもあるが、上場企業の経営はそうはいかない。上場コストは、アドミだけでなく精神的な部分にまで及び始めている。上場企業に課された現在の市場主義ルールが、経済社会を大きな転換点に追いやっていると見ることも出来るだろう。

◆ 配当こそが企業経営責務

海外諸国でも上場企業が国策に絡む場合は、株式取得制限を設けている。日本だけがおかしいわけではない。だから日本に問題がないのではなく、欧米諸国にも問題があると考えるべきだろう。上場企業における株式取得制限と、ロシアの民主的選挙制度とはどう違うのだろうか。

非上場・非公開であれば、市中からの資金調達が難しいという見方もある。巨額の資金調達を円滑に行う為に株式公開する意義があるのは事実だが、世間では第三者割当増資など日常茶飯事であり、一般株主と特定株主との距離感に差があるのは、ある意味で当然のことと認識されている。企業ファイナンスの本音は、決して民主的ではない。従って、民主的な株式市場に企業経営や財務が翻弄されるのは本末転倒ではないか。

現代市場での認識は全く反対だ。株主が企業の所有者であり、企業は株主に逆らえないことになっている。株主が経営者をクビにする。株主が反対すればM&Aも出来なくなる。株主がコスト削減といえば人員が2割カットされていく。それが適切なアドバイスであることもあるが、常に正しい訳ではない。現代企業は主権の一部を取り戻す必要があるのではないだろうか。

だが、それは古い体質を蘇生するだけだ、という反論もあるだろう。株主からのチェックや要求が無ければぬるま湯経営に逆戻りする。多くの日本企業はそういう体質から抜け出せていない。従って、アクティヴィストによる荒療治も必要だという意見にも一理ある。但しそれは企業にとって本来の解決法ではない。

企業経営の怠慢を防ぐ為には、営業黒字と配当を株主に約束させるという手法がある。株価などは所詮経営者の手が届かぬところで上下動するものであり、そんなものを経営目標にするのも、株主が経営に求めるのも筋違いである。株主にも「株価よりも配当」という株式会社の原点に立ち返る意識改革が必要だ。そして、2-3年連続で配当できないような経営者は株主総会で自らの進退を伺うべきであろう。

株式市場がもつ本来的な精神が損なわれたのは、株価上昇への期待値が独り歩きし始めたことが主因である。株主が企業に投資する最大の動機は配当なのである。我々は、世界初の株式会社と言われるオランダ東インド会社の設立精神を忘れてしまっている。企業への出資目的とは、有限責任の下での配当取りなのであった。株主と経営者がそこで合意する限り、獰猛で品性の無いアクティヴィストなど入り込む余地もない。

上場企業のコスト増は現代経済への大きな障壁である。実の無い規制や知性乏しきクレーマー株主の排除が民主的市場において不可能であるならば、企業社会はその市場ルールの修正をも視野に入れる必要があるのではないか。

2008年02月08日(第164号)
 
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