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◆ 「新・公的資金の時代」の予感
◆ 大恐慌時代への接近
偶然とは恐ろしいもので、昨春あたり、筑摩書房第三作目の企画(6月に出ます)で様々な調べモノをしている際に米国の大恐慌時代の様子が知りたくなって、何冊かの書籍を紐解いたことがあった。その大恐慌の姿がいま、目の前で再現されようとしていることに、背筋の寒くなる思いを抱いている。米国は、100年に一回あるかないかの深刻な金融危機に直面していることは間違いない。
2002年に預金保険機構の委員に就任し、不良債権を日本の銀行から買い取る際の価格を査定するに当たり、そもそも論としての公的資金投入の是非などを委員会で非公式に議論したことがある。1998年当時は、日本発の金融危機を世界に波及させてはならないという政府のお題目もあり、また北海道拓殖銀行の破綻で道内経済が混乱したこともあって、主要銀行すべてを一律救済するという常識を超えた判断が下された。
だがその結果として不良債権処理が加速されたかと言えば、必ずしもそうではなかった。一部例外を除き、損金処理は飽くまで業務純益の範囲で、という経営スタイルは変わらず、処理スピードは満足の行くものではなかった。その意味で、一律公的資金投入という方法は日本の金融構造改革には必ずしも役に立たなかったのではないか、というのが筆者の考えである。市場の安定化には有効だが、システムの改善には逆効果であったかもしれない。
さて、米国でも政府や議会は様々な対応法を検討し始めているようだ。大恐慌時に住宅ローンの借り手を救済した「住宅所有者融資公社(HOLC)」を復活させようとする声も聞こえている。FRBによるモーゲージ債の直接買い取りや金融機関への資本注入なども俎上に上っていることだろう。連鎖倒産を恐れたFRBはBear Stearnsの実質救済に出動したが、今後の展開次第で、より大物の救済の必要性に迫られる可能性も無いではあるまい。JP Morganの決断が蛮勇で無いとの保証は無い。何が起きても不思議ではないのが「大恐慌時代」である。
なぜここまで「信用」が失われたのか、それはもはやモーゲージ問題を超えている。というよりもモーゲージ問題に胚胎していた「銀行主義」の堕落こそが本質的な原因であるというべきだろう。それは通貨主義に対する概念の腐敗でもあり、顧客に対する背信でもあり、また金融理念に対する背徳でもあった。
金融の役割は何であったか。それを再認識しないで、「信用」の復活は有り得ないだろう。国有化された足利銀行が野村グループへ譲渡されたのは、そうした意味では一つのケース・スタディになりうるだろう。当初優勢が伝えられた地銀連合が敗北した理由は、そのビジネス・モデルが評価されなかった為、と聞く。その再建戦略に、銀行はどうあるべきかという思慮は乏しく、単なる「友人救済」のレベルに止まっていたらしい。そんなことで銀行が再建出来ると考えていたとすれば、地銀連合に参加した金融機関の経営陣は襟を正して猛省すべきだろう。逆に、新銀行東京の挫折はその役割にのめり込み過ぎて金融自身の信用を見失った結果でもあった。
◆ 銀行像の原点
先日、メルマガで「古典に還る」と題してこういう市場混乱期には古典に戻って視座を変えて見るのも一興、といった小文を書いたところ、何人かの方々から「自分もこれこれの古典を読んでいる」という返事を頂いた。筆者が数年前から再読にチャレンジしているのはマルクスであるが、ここでは銀行業の役割を明確に描写しているアダム・スミスの言葉を取り上げてみよう(以下は水田洋訳の岩波書店版「国富論」による)。
因みに「見えざる手」という有名なフレーズは第四編「政治経済学の諸体系について」の第二章に見えるが、ここで引用するのは金融に関して言及されている第二編第二章からである。
「銀行業のもっとも賢明な操作が国の産業を増加させることができるのは、国の資本を増加させることによってではなく、その資本の大部分を活動的で生産的なものにすることによって、なのである。」
「一国で流通する金銀貨は公道と比較することができよう。公道はその国のすべての牧草や穀物を流通させ市場に運搬するけれども、それ自身はどちらのひとかたまりも生産しないからである。銀行業の賢明な操作は、私の極めて乱暴な比喩が許されるのなら、空中に一種の車道を設けることによって、その国がいわば公道の大部分を立派な牧草地や穀物畑に変え、それによってその国の土地と労働の年々の生産物を大幅に増加させることを、可能にするのである。」
アダム・スミスは、銀行が手元に置いておく必要のある現金を「死んだ貯え」と表現し、それを最小限に止めて「何かを生産する貯え」に転換することによって成長が可能になると述べる。だが、その一方でその為の利用される紙幣の管理が極めて重大なリスクを抱えることにも注意を喚起している。
「その国の商業と工業は、いくらか増大するにしても、紙幣というダイダロスの翼で吊り下げられているのであるから、金銀貨という堅固な地面を歩く場合ほどには、全く安全ではありえない。」
「商工業は、この紙幣の管理人たちが未熟であることによる不慮の出来事にさらされているばかりでなく、管理人がどれほど思慮深く、また熟達していても、防ぐことの出来ない他のいくつかの出来事にもさらされているのである。」
因みにダイダロスはギリシア神話に出てくる工匠(職人)だ。クレタ島のミノス王に幽閉された際に蝋の翼を作って脱出したが、息子のイカロスは逃亡中に太陽に接近しすぎて墜落してしまった、というあの話である。サブプライム問題に端を発し、米国の金融システムという蝋細工は、まさに過剰流動性とレバレッジに煽られて溶け出して瓦解してしまったのだ。
何だか21世紀に起こる金融危機を200年以上も前に見透かされていたような文章であるが、言い換えれば、どんなに市場や商品が発展、進化しようとも、金融経営とその危険の「原点」だけは移動することがないということであろう。
◆ 世界の金融は何処へ
混迷の続く中、金融機関はどのように社会的責務を果たすことが出来るのだろうか。これは世界共通の問題である。中でも、現代の国際金融ビジネスを牛耳ってきたアングロ・サクソン流の銀行経営が行き詰っているのは事実であり、かつて日本の銀行に向けられたのと同じように、冷やかな視線がWall StreetやCityにも向けられていると見るべきだろう。
業界の高い給与水準やモラル低下も金融糾弾の材料になっている。金融機関における損失計算に躍起となっていたメディアも、そろそろ、この業界が今後どのように洗浄されていくのか、といった矯正プロセスに焦点を当てていくことになるだろう。だが、大恐慌のような時代に、民間金融の自力再生に限界があるのも事実である。
1980年代以降のグローバリゼーションと歩調を共にして収益機会の拡大路線をひた走った金融モデルの失墜は明らかであり、その反動による急収縮は深刻で長期間にわたる景気後退をもたらす可能性は高い。金融機関の破綻や公的資金による救済、といったニュースも今後更に増えるかもしれない。英国Northern Rockの破綻や米国Bear Stearnsの蹉跌だけでこの金融システム不安が終焉するかどうかは、依然として不透明である。
勿論、不動産市況や住宅ローン問題から遡及して過剰消費社会という点にまでメスを入れなければ米国病の治癒は完遂されない。だが金融不安というマグマが暴発して実体経済が必要以上に震動することのないように、主要国の金融機関は、世界共通の危機認識の下で一度建て直しを図る必要があるのではないか。
アダム・スミスが「ダイダロスの翼」と称したシステムを修正出来るのは、各国の中央銀行と財務省における協議の中だけである。民間銀行は、そこにぶら下がったフラジャイルな存在でしかなく、蝋が溶け始めたシステムの中で彼等に多くを期待するのは無理がある。適切な制度設計無しに、民間金融は再建出来ないだろう。いくらJP MorganやGoldman Sachsのバランスシートが健全だといっても、数社の金融力で世界経済を支えることなど出来る筈も無い。株式市場などはその点であまりに楽観的なように見える。
公的関与を最小限にして、飽くまで民間努力による金融再生を図るのであれば、この混乱を脱するのにかなりの時間を要することになるだろう。急速なデフレを呼び込む可能性もある。新興国経済はそれなりの成長を維持できるかもしれないが、中国やインドの経済にやや怪しい雰囲気が漂い始めているのも気になる。
国際経済の安定化の為には、信用収縮で増加し始めた「死んだ貯え」を最小限に止める必要があるが、クレジットのトラウマに魘される民間金融にその役割を期待するのはもはや無理であろう。金融の公的化が欧米で始まれば、早晩日本にもその波が押し寄せるかもしれない。新たな「公的資金の時代」が来るのだろうか。決して望ましい姿ではないが、それは過渡的と言いながらも、金融史における一つの必然の姿なのだ、という気がしないでもない。