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◆ 金融における信用と信仰との落差

◆ TrustとBelief

6年前に発刊された本誌は、当初「Credit Research & Pricing」という名前であった。その文字が表す通り、金融市場のクレジット・リスクの話題を中心に取り上げた、日本初のNews Letterであったが、名前を変更した後もクレジット市場は本誌の中核テーマであり続けている。米国で爆発したサブプライム・ローン問題は、その意味からも避けて通ることの出来ない最重要な材料であった。

Creditは日本市場ではそのままクレジットと呼ばれることも多いが、敢えて日本語に直せば「信用」である。我々は普段、金融ビジネス以外でも何気なく信用という言葉を使っている。「あいつは信用ならない」という場合は、その人の言うことを信じてはいけない、といったニュアンスがある。「もっと私を信用して下さいよ」といった場合は、何故私の話を真に受けてくれないのか、という不満の表明である。

もっと一般的に「信用を得る」ということは、過去の積み重ねによって、将来的に裏切ることはないだろうという推論を相手に抱かせることである。友人関係やサークル活動、自治体活動といった利害関係の薄い社会の間でも、信用は大きな役割を果たしている、と言われる。まして、カネの貸し借りが絡むビジネスとなれば、信用は商売の大前提であろう。まさに「信用は一日にして成らず」である。

金融において、信用は融資や社債、或はカウンターパーティ・リスクなどの領域だけに限定される話ではない。通貨すら、信用の上に成立っている。1万円札は、国がその流通を法的に強制させている「信用通貨」である。この銀行券は「日本銀行法」で「法貨として無制限に通用する」とお墨付きが与えられている。

これとは別に「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」というのもある。こちらが政府の発行する貨幣の規定である。因みに20枚以上の貨幣(硬貨)は「法貨」ではない、と第7条に書いてある。210円のバス賃を払うのに、10円玉を21個出して乗車拒否されても文句は言えないのである。株式会社の日銀が発行する日銀券は無制限に流通し、日本政府がは行する貨幣には流通制限がある。通貨とは難しいものだ。

閑話休題。さて昨年来、自信を無くして右往左往する米国金融市場を見るにつけ、約30年前に銀行に就職してから一貫して抱いていた金融の枠組みが、すべて蜃気楼だったかのような錯覚に陥っている。社債やローン、デリバティブズなどのクレジット・ビジネスもまた、二重・三重の意味で曖昧なクレジットの螺旋構造に組み込まれただけの、足場の不確かな金融ビジネスであったような気もしている。本誌165号で述べたように、信用していたと思った金融体系は、必ずしも信用に足る構造ではなかったのかもしれない。

我々は、金融インフラを信用していたつもりであった。通貨も、有価証券も、信頼感ある実在であった。その上に成立する派生商品も数理的な存在証明は可能であった。だが、我々がそれらに抱いていたのは果たして「信用(Trust)」だったのだろうか。特に金融インフラの根底を成す通貨に対する感情は、むしろ「信仰(Belief)」に近い思い入れに過ぎなかったのではないだろうか。

◆ 信用はどう醸成されるか

米国Sub-Prime問題では、様々な専門家が様々な意見を述べてきた。株式市場では強気と弱気が対立し、弱気派が勝利した。為替市場では、珍しく多数派のドル急落説が支持された。その過程では皆、誰の見通しを「信用」するかという問題に直面する。我が道を行くという人もいようが、殆どの人々は、様々なエコノミストや評論家の説に耳を傾けるだろう。その際の「信用」はどう醸成されるのだろうか。或いは、それが「信用」であるという証明は、どのようになされるのだろうか。

評論家でもエコノミストでも誰でも良いが、人には一般的に「ご贔屓」がある。たとえ予想が外れても、その論理の組み立てや視野の広さ、分析の切れの鋭さなどにおいて、その人の意見をきかずにはおれない、という気持ちを抱く対象は誰にでも一人や二人はあるだろう。その際にも信用と信仰の差は出てくる。XX氏を信用しているのだ、とは言いながらそれが単なる信仰であることは少なくない。

信用と信仰の差は、そのXX氏の解説をどこまで深く理解しているか、だけに止まらない。XX氏の過去における言説や行動、その根拠となった哲学にまで遡って分析し、それが信じるに足ると納得するところまで行き付かねば、Trustという段階にまで到達することは難しい。仮に、XX氏が昨年米国のサブプライム問題を正しく指摘したとしても、或はドル円が再び100円を割れるタイミングを的中させたとしても、その事実だけを以ってXX氏が「信用出来るエコノミストだ」とは、少なくとも筆者には思えない。それでXX氏を賞賛するのは、まさに単純信仰でしかない。

例えば前FRB議長のグリーンスパン氏への「信用」はどう形成されたのだろうか。最近では毀誉褒貶相半ばしているようだが、今でも彼の言葉を全く無視する人は少ないだろう。18年間にも亘って米国の、否、世界の金融の舵取りを担ってきたという実績だけではなく、彼独特の嗅覚に基づく市場感を信用し続けた金融プロも多い筈である。筆者もその一人である。だがそれは信仰に過ぎなかったのではないかと詰め寄られれば、確かに「そうではない」と言い切る自信がない。

所詮、金融に本当の意味での信用など無いのではないか。Trustというのは幻想であって、現代金融はそれをカモフラージュしているだけではないのだろうか。カネを貸すにも、信用したフリをしているだけではないのか。信用リスクというのは、本来的には人間の本性に属するリスクそのものであって、それを管理するというのは偽善行為に過ぎないのではないか。

我々が抱えている金融の基礎にある通貨は、信用問題ではなく信仰問題であると読み替えねばならないのではないか。その上に成立つ市場もまた「信仰リスク」が付きまとっているのではないか。やや論理を飛躍させれば、日本で個々の信用に基づくプライシングが定着しないのは、信用ではなく一律の信仰に基づいた金融が展開されているからではないのだろうか。

◆ 「信仰リスク」を管理するには

現代の不換紙幣が「信用貨幣」であるという表現は、昔の金貨や銀貨は「実物貨幣」であって信頼度が違う、というニュアンスを含んでいる。金貨なら信用できるがドル紙幣や日銀券など所詮は擬似的存在ではないか、という意味合いである。だから兌換紙幣と不換紙幣という定義が生じたのである。

現在、そうした感覚は消滅している。誰も1万円札を見て「こりゃ、単なる信用貨幣だ」という人はいない。それは、日銀券でも金貨でも同じことだという崇高な信用の通念にまで達したからだ、と見て良いのだろうか。答えは明らかに「否」であろう。貨幣に関して言えば、法律による流通力が「信仰」されているに過ぎないのである。そこにはTrustという意味での信用はない。

逆に言えば、それはこと通貨に関する限り、信仰が信用にまで昇華していくことは有り得ないことの裏返しでもある。稲穂が商品流通の媒介貨幣と原資資本の形態であった時代から、様々な電子マネーが氾濫し始めた現代に至るまで、通貨信仰に関する根幹的な差異は生じていない。金貨や銀貨も、所詮は信仰貨幣に過ぎなかったのである。

だが信仰とは決して虚無ではなく実在である。金融の原点に帰るということは、信用通貨という幻想を捨てて通貨信仰を忠実に守るということなのかもしれない。そこで排除されるべきは、やはり偶像崇拝なのである。ドル下落は、その意味では正しい文脈に沿った動きなのだろう。

通貨において重要なのは、それが信用貨幣であるか否か、或いは信仰を崩さぬ存在であるかどうかではなく、我々が信仰の対象を間違えていないかどうか、という点である。我々は、「信用」という誤解のもとに、通貨信仰の原点を見失っている可能性があるのではないか。我々が信仰すべきは、貨幣の流通システムであって貨幣そのものではないのである。

それを援用すれば、貨幣信仰の上に成立する資本市場において我々が信仰すべき対象は、個々の取引や商品、格付けなどではなく市場システムそのものなのである、と言えることが出来るのではないか。その意味では、サブプライム問題を契機にどんどんその正体が暴かれていった、似非証券化商品やSIV、モノライン、極度のレバレッジなどが信仰の対象では有り得ないのは自明であった。金融における救いは、はやり市場機能そのものにしか無いのである。信仰すべき対象を間違えたことが、現代国際金融における21世紀初頭の大きな失態であった、と総括しても良いのかもしれない。

2008年05月09日(第170号)
 
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