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◆ 「Here」と「There」
◆ 現実と非現実の境界線
私がまだチェースに居た時分だからもう10年近く前になるが、私の書いた音楽本がきっかけで松岡正剛氏から編集工学研究所のクリスマス・パーティにご招待頂いたことがある。今や日本文化を語らせれば当代随一の同氏が、その当時盛んに論じていたのが「Here」と「There」の問題であった。それはインターネットが普及し始めて、ネットの世界を「あちらの世界」すなわち「There」と呼んでいた時代を意識したものであった。
当時のネット世界と現実世界の間には明確な境界線が引かれており、仕事から解放された時間でパソコンの前に座って「あちらの世界」を探訪するという「There」感覚は、一種の現実逃避でもあった。いま、その境界線が崩れている。ネット社会のバーチャル感覚と現実感覚が混同され始めているのである。その具体例は、自殺、殺人、いじめなどを含めて枚挙に暇が無い。
こちらとあちらを区分するのはネットだけではない。日本と米国を区分するのも「Here」と「There」である。この世とあの世も此岸と彼岸だ。そんな区分は無数にあるが、そこに引かれた境界線の崩れは現代に特有の混乱なのだろう。金融も、実は例外では無い。
松岡氏は、「Here」と「There」の区分は、人間が直立歩行へと進化した時点で生まれた、と述べていた。四本足と二本足では眼のつき方が違う。直立することで平行視が可能になり、それによって柔軟に焦点をあわせる視的技術を取得する。それが自己と他者の区分の認識へ繋がるという。この辺は松岡流の解釈も入っているようなのでその信憑性についてはひとまず置くとして、人間が「Here」と「There」を意識し始めたが故に、現実の生活と死後の世界などの区分が出来るようになったというのは恐らく真実だろう。
その区分が曖昧になって混同し始めるということは、現実と非現実の区別がつかなくなるということである。社会学者の見田宗介氏に拠れば、現実と対応するものは理想であり、夢であり、そして虚構である。そこに境界線があるからこそ「Here」である現実において、「There」である理想、夢、虚構を語ることが可能であった。それが不可能になるとはどういうことだろうか。
現実と「理想」の混同や現実と「夢」の混交は、しばしば起こりうる錯綜だ。ビジネスでも、教育でも、政治でもそういう言論をよく耳にする。だが、流石に現実と「虚構」を同一視する人は少ないだろう。それが頻発すると、社会は急速に不安定になる。大澤真幸流に言えば、「現実からの逃避」ではなく、「虚構としての現実への逃避」へと向かうのが現代の特徴なのかもしれない。そして、サブプライム問題に見られたスーパーシニア狂想曲も、現実には有り得ないリスク・リターンの虚構的相関を信じた例として、この「Here」と「There」の混同とも思える病理を胚胎していたということも出来るだろう。
◆ 日本と米国
一般論として、日本は海外の眼を気にすることの多い国だと言われるが、それは海外の叡智を是としてきたDNAが成せる業でもあろう。そもそも仏教伝来から日本では中国をより優れた国として認識してきた。江戸時代の国学による「日本意識の目覚め」はあっさりと欧米列強によって破壊され、第二次世界大戦後は米国が中国に代わって「絶対崇拝の国」となった。これは、ややもたつきながらも今日までまだ続いている。
比較文化論などにおいては、「西欧社会は聖書を拠り所に、日本社会は米国を拠り所に」と揶揄されることもある。ここにも日本流の「Here」と「There」の感覚が反映されている。但し、それはすべてにおいて悪いということではない筈だ。「There」の優位性を認めつつそれを積極的に採用し「Here」が「There」に飲み込まれることを回避したからである。
明確な境界線を保つことで米国という「There」の相対性を維持してきたことは大きな遺産であるが、理想や夢として現実に対応してきた「There」としての対象が虚構へと変化していくと同時に、その「Here」と「There」の相対性にも綻びが見え始めている。それが金融というビジネスにも色濃く反映されている。
米国金融は、日本に大きな影響を与えてきた。政治や企業経営でもそうだが、米国の制度をまず直輸入することが一つの善行だという錯覚に支配されている日本人はまだ多い。金融において言えば、従来日本の金融は、JPモルガンやゴールドマンの生き方をバイブルと見做してきた。それは金融の独自戦略を開発してこなかった日本にとってやむを得ない選択肢であったが、残念ながら、こうしたコピー戦術は必ずしも成功したとは言えない。
「There」としての米国金融は、消費を美徳とし投資利益を成果と評価する社会構造のもとに作られた形態であり、それはある人々には「理想や夢」であったかもしれないが、敢えて言えば世界に無数存在する社会像のひとつに過ぎなかったのである。それがあたかも「Here」である日本と同期すべき対象のように捉えられた結果、米国型金融をコピーすることこそが、日本金融の在り方であると理解されたのだ。
バーチャルなネット世界の「There」が「Here」たる現実社会に食い込むように、米国金融という外界と日本金融との区別が付かなくなったのがポスト不良債権時代の特質であると言えるだろう。「There」に全幅の信頼を置いてしまったメガバンクの経営陣らはいま、何をすればよいのか途方に呉れているように見える。
◆ 「There」としてのクレジット
金融には、もう一つ別の意味での「Here」と「There」を感じている。それはクレジット・リスクが当然のように存在する現実世界の「Here」と、リスクフリーと言われる虚構的世界の「There」である。我々は、リスク社会に生きているが故に、リスクフリー社会を理想或いは夢として追い求める。金融においては、それを格付けという機能が媒介している。個人の資金は郵貯や銀行預金にリスクフリーを求めたのだ。
「Here」としてのリスク社会に、絶対者としてのリスクフリーは存在しない。米国債がリスクフリーであるというのは理念上のフィクションであり、日本国債も(当然だが郵政公社も銀行も)同じである。リスクが無いという事象は存在し得ないのが現実である。リスクフリーが現実話の如く語られるのは、虚構の上に立脚する投資理論がそれを必要としたからであって、現実がそうだから、なのではない。
だが、金融市場(の一部)ではあたかも現実にリスクフリーが存在していると信じられている。トリプルAはその一つである。格付け会社が明示的に「リスクフリーは存在する」と主張している訳ではないが、結果として「There」における虚構を現実に貼り付ける役割を果たしてきたのは事実であろう。
サブプライム問題は、クレジット市場における「Here」と「There」の混同、虚構を現実として捉える錯覚、そして虚構と一体化した現実への逃避、を生んだと言えるかもしれない。「There」とは飽くまで虚構の世界であり、我々はクレジット・リスクに囲まれた「Here」に生きるしかないのである。そこでリスクフリー(への幻想)を求めて鎬を削る姿は、滑稽としか言いようが無い。
ある年金基金の知り合いが、今後のクレジット投資において今回のサブプライム問題をどのように教訓とすべきか、という質問をよこしてきた。クレジットでかなりの損失を被ったからだろう。私にはもはや実務的な立場で的確に答える資格もないが、そういう質問を聞くに付け、金融界の現状認識は「There」を「Here」と同一視して混乱を続けるネット世代の社会感覚と、さほど変わらないような気もしている。