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◆ 金融における三位一体説
◆ いわゆる三位一体の改革
私の実家の宗派は浄土真宗であるが、祖父が天台宗の長谷寺にあった仏像に惚れ込んで以来、葬式や法事などの祭事は浄土真宗、日常生活は天台宗、そして幼稚園はカトリックという混沌の幼児期を過ごした。今でもお寺や教会には強い関心がある。恐らく似たような錯綜的宗教体験を持っている人は少なくないだろう。この微妙な感覚が、人生半世紀を過ぎた今頃になって、忽然と蘇生し始めている。
キリスト教に浸って発展してきたとも言える国際金融の仕事をしながら、一方では神道や仏教・儒教感覚のミキサー状態から抜け切れぬ現実感覚のもとで、宗教という存在がどういう訳か気になって仕方が無いのだ。私は何の信者でも無いのだが、それ故か、金融市場に潜む宗教要素をどうやって抜き出せば良いのか、まだ答えは見つかっていない。
日本の財政改革で盛んに使われた「三位一体の改革」という言葉は、何かヒントになるのだろうか、と思ったこともある。国庫補助負担金、地方交付税及び税源移譲を含む税源配分のあり方にかかわる、いわゆる「三位一体の改革」は、様々な論議や批判を生みながらその着地点を模索し続けているが、オリンピックの体操競技のような華麗な着地は望むべくもないのが現状である。
小泉改革を始点とするこの国と地方自治体の間の財政システム改革に対し、「三位一体」の言葉が付されたのは2004年である。それ以降、国と地方自治体との間の政治的綱引きが展開され、「地方に出来ることは地方に」といった理念とは裏腹に生々しい駆け引きが展開されてきた。その実体は、まさにキリスト教が「三位一体」という摩訶不思議な説に合理性を与えるのに散々苦労してきたのと同じような苦しみを味わっているようにも見える。
そもそもこの改革は、市場メカニズムの重視、地方自治の確立、国家財政再建などの改革精神から出てきたものであり、それ自体は小泉政権が郵政民営化のドサクサでしれっと導入した後期高齢者医療制度のような極めて筋の悪い話とは違い、合理的で論理的な議論が可能な改革の筈であった。それが、財務官僚の覇権復活とともに国家財政再建という論点が鮮明に浮き出たため、「地方いじめ」のような結果をもたらしているように見える。
実際にそれは、補助金削減が税源委譲額を大幅に上回るという現象に如実に現れ、地方の「中央不信」が募っていく。とりあえず2006年までに3兆円の税源委譲が確認されたものの、三位一体の改革とはいったい誰の為のものか、という問題提起は消えていない。
勿論、これまで国に大きく依存してきた地方財政の甘えの構造が露出したという点も見逃すことは出来ない。国が地方財政を見放すわけが無い、とたかを括っていたのは事実であろう。だからといって、その緩んだ精神が急変して一気に独立独歩の財政を歩むようになると期待するのも非現実的である。構造改革には時間がかかる。本家の「三位一体説」ですら、アウグスティヌスが本格的に理論武装するまで400年かかっているのである。
◆ 三位一体の意味論
結局、日本の「三位一体の改革」とは三つまとめて面倒見ましょう、という類の話であって、キリスト教でいう三位一体とは何の関連性もない。興銀と富士と第一勧銀が一緒になって「三位一体」だというのと同じような日本独特の用語法である。三位一体とは、識者の方々には言わずもがなであろうが、「神と子と聖霊の名において」というフレーズでお馴染みの、キリスト教の中心教義である。
神とイエス、そしてHoly Spiritとしての聖霊という聖なるものを「三つで一組」として捉えるこの教義は、考えれば考えるほど解らなくなる。だが、ある人に言わせれば、相撲の「心・技・体」というのもそれに近いのではないか、という解釈になる。それは、ギリシア時代に生まれた「魂・心・体」の三元論を汲むものであり、それが延々と現代日本の国技(最近日本人は殆ど活躍していないが)にまで流れているということは、三位一体は決してキリスト教に特有なものではない、と言えるのかもしれない。
閑話休題。キリスト教が、神とイエスの同体結合に加えて得体の知れない「聖霊」を持ち出したのは、教会の権威を超越的な存在に高めるためだという説もある。従って、論理的に解釈しようとすれば、どうしても無理が生じ、アリウス派のような異端派の誕生は必然化する。三位一体に対する批判は今でも消えていないが、1962年から3年間にわたって開催された第二バチカン公会議では「救済と言う父の計画が聖霊を送ることによってなされた子の受肉によって成就する」のだと解釈されて、取り敢えずその世界では一件落着しているらしい。
これを「無限集合」を使った数学的表現で表そうとする動きもある 。数学上の無限とは、現実には視覚されないものであるが、その概念自体は認めうるものである。「父と子は同じものではないがどちらも唯一神である」という非論理性は、「全体集合と部分集合は同じものではないがどちらも無限集合である」として数学的に説明可能というわけだ。やるなあ、という感嘆と、それでも何だかスッキリしない気持ちが入り混じる。
◆ 金融上の三位一体
さて何をこじつけたいかと言えば、ほぼお察しの通りで、クレジット市場における信用力と格付けそしてリスクプレミアムという三つの相対関係である。本来は、投資や融資の分析対象となる信用力は、通念として定着している格付けを通じて、市場表現されている、と理解される。だが格付けの権威は既に凋落しており、この三者間の恒等式を崩しているのが現実であろう。
クレジット市場は、いわば信用と格付けとプライシングを三位一体と見做して運営されてきたのであり、それはまさにキリスト教社会が「父と子と聖霊」を一体と見做して機能してきたのに似ている。かなりこじつけて言えば、欧米市場独特のクレジット・カーブは、この三位一体の相似形である。
だが、最近の例で言えば、アジア危機でまず格付けへの疑問符が生まれ、ITバブル崩壊でその不信感が増大し、サブプライム問題でその権威は大きく揺らいだと言う事ができるだろう。EUは格付け規制強化論に靡いている。中世以降におけるローマ教皇への不信感増大と、何やら相似形のようにも見えてくる。クレジットにおける三位一体説もまた、その権威付けの根拠を問われているのである。
「神は死んだ」と喝破したニーチェは、絶対的な第三者など存在しないことを世に示したことで有名だ。三位一体のクレジット・プライシングは、格付けという虚像が崩れて、その絶対性を問われることになった。ニーチェ流に言えば、「格付けは死んだ」のだ。
信用力とプライシングを結ぶものは、格付けではない。もっと言えば、プライシングを与える変数は信用力だけではないのかもしれない。例えば環境要素や流動性などはその候補だろう。或いは、キリスト教が「悪魔」を抵抗勢力と位置付けて説得力を得たように、三位一体の裏側に潜む悪魔的要素をプライシングの根拠に求めるべきなのかもしれない。
企業でも証券化商品でも、社会的存在である限り、その負債には存在論的コストが反映されるべきだろう。社債や融資のプライシングは、CDSも含めて、新しい価値論拠を求めている。三位一体の否定と新たなプライシングという宗教改革が、「キリスト教金融」でも「イスラム金融」でもない「日本の金融」の中で生まれる可能性は無いのだろうか。