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◆ 予見された経済危機
◆ 悪夢の予言者
昨年末、ウォール・ストリート・ジャーナル紙が2008年を総括する一つの企画として、「Best Calls of the Year」という記事を組んだ。日本流に言えば、「年間予測ベストテン」といったところだろう。同紙が掲げた首位は「Short-Sellers」つまり空売りした人々であった。株も不動産も、そして下半期は原油などの商品も空売り勢の大勝ちであった。
そして二位に名前が挙げられたのは、ニューヨーク大学スターンスクールのノリエル・ルービニ教授である。超弱気派で知られる教授には揶揄も込めて「Dr. Doom」の称号が与えられたが、その悲観的な見通しは悉く的中し、ノーベル経済学賞など霞んでしまうほど世界で最も有名な経済学者になった。
そのルービニ教授について本を書かないか、と出版社の編集長から言われたのが昨年8月である。教授の弱気発言は欧米メディアで時々耳にはしていたが、経歴や業績などそれほど良く知っている訳でもなくまた別の出版の企画もあったので、ちょっと検討します、と逃げ腰の返事をしていた。
ルービニ教授に関して、日本のメディアは当初あまり注目していないようだった。米国楽観論に対する極端な対立軸として超弱気のコメントを掲載する、といった供え物のような扱いに過ぎず、筆者もまた教授のことを「極論で目立ちたいタイプ」くらいにしか見ていなかったのだ。
だが弱気派の代表みたいな同教授の「予言」がなぜここまで当たるのか、ちょっと気になったので、過去の発言や論文などをネットから引き出して読み始めてみた。当初は「たまたま当たった」系のエコノミストだろうと思っていたのだが、過去数年間の言説を読んでいくうちに、何となく筆者の相場観に通じるものを感じた。それは「国際金融危機の一環としての米国危機」というコンテクストである。
その直感から、企画協議を始めていた出版社には勝手ながら中断を申し入れて、日経BP社の黒沢編集長に「ルービニ先生の件、ちょっと書いてみます」と返事をしたのは休暇明けの9月中旬である。もっとも、他人について本を書く、という仕事は生まれて初めてのことでもあり、構想を練るのにほぼ一か月かかった。
そして出来上がったのが、今週発刊された『予見された経済危機―ルービニ教授が読む「世界史」の転換』である。
◆ 経済学者への不信感
本書の内容をここで説明するつもりはない。まあ、読んでみて下さい。ただ、筆者はルービニ教授の「信者」でもなく教授の予言が今後も当たり続けるとは思っていないことを明言した上で、同時に、世間を混乱させるだけの不毛な価値観闘争ばかりを繰り返している最近の内外著名な経済学者らの存在意義を、あらためて疑問視するようになったことを表明しておきたい。
本の表紙カバーには、ルービニ教授は「天才経済学者か、エセ予言者か」という出版社独特の営業用オビが付けられているが、筆者にとってはむしろ「ルービニ教授のブレーク」こそが「経済学の第三の危機」を表象しているのではないか、と思われるのである。
周知の通り、ジョーン・ロビンソンが「経済学の第二の危機」を唱えたのは1971年のことである。アメリカン・ケインジアンに対抗して「正統派ポスト・ケインジアン」であることを主張し続けた彼女は、ケインズの一般理論刊行時を第一の危機と規定し、ブレトン・ウッズ体制崩壊の過程で変質しつつある資本主義経済に対して、経済学は雇用や投資の質を論じねばならない、と指摘したのであった。
第一の危機はケインズの処方箋で見事にクリアされたが、第二の危機は経済学を様々に分派させただけで、未だに尾を引き摺っているように見える。危機など存在しないかのように先端的経済学を主導した筈の米国において、主流派エコノミストは経済危機を予見し得えなかった。虚しく瓦解した実体経済はいま、喘ぐように処方箋を求めている。
米国をはじめ、金融政策を出し尽くした各国政府は、悲鳴を上げる経済に対して積極的(一部ではやや無謀な)財政支出に救済策を見出そうとしている。当然ながら経済学はケインズの古い処方箋を取り出すだけで、他には何も答えられない。メディアに登場する経済学者は新自由主義を罵倒するだけで、新古典派を超える思想を生み出す力を持たない。これを「第三の危機」と呼ばずして何と呼ぼうか。
ルービニ教授の「予言」は危機への処方箋ではなく、経済が危機に陥る必然性をアナロジー的に説いたものであった。つまり、主流派経済学者は高度な数理モデルを駆使してソフト・ランディングを主張するばかりであったが、ルービニ教授のアナロジー的予想は当たった。これが21世紀の経済学の悲しい姿なのである。
2009年の実態経済は、多くの専門家が予想するとおり深刻な状況が続くだろう。そして経済学もまた、過剰生産の大調整に直面する社会と歩調を合わせるように深刻な谷間へと落ち込んでいく。ケインズ療法の復活を横目に、経済学はいずれ「科学の女王」の看板をこっそりと捨てる日が来るだろう。それは理論経済が学問ではなく「経済論」に過ぎないことを示すものだ。経済学者は経済論者と名称を変えるべきかもしれない。
経済学の精神は、「政治経済」と呼ばれた時代の経済思想へと回帰すべきである。豊かさとは何か、国益とは何なのか、個人の富はどう定義すべきか。先進国の成長をどう計るか。重金主義や重農主義、あるいは重商主義が跋扈した時代に比べて、我々はそれほど「経済学的」に豊かになったとは思えない。価値観闘争は学問ではない。よって理論経済は、本質的に学問ではありえないのだ。ルービニ教授の「予言的中」はそのタブーを突いたとも言えよう。
ルービニ教授の存在は、その予言があたるか外れるかではなく、サミュエルソンやマンキューの経済学テキストが、本質的に金融工学のテキストとそれほど大差ないことを「預言」しているとは言えないだろうか。