HOME > 2009 |
◆ レギュラシオンが示す危機分析
◆ フォーディズムとの対比
本誌98号(2005年5月13日号)に、レギュラシオン派のボワイエ教授の手になる「資本主義対資本主義」を採り上げて、同書が「資本主義が一つの形式に収斂するといった見方や、現代の金融化が資本主義の内実を崩壊させようとしているといった批判を、資本主義の多様性は理論的に示すことができると主張しつつ、ともに撃破している」と紹介した。その主張をいま、もう一度噛みしめる必要がありそうだ。
教授らは、米国型の資本主義を市場機能に特徴付けられると見て「金融市場資本主義」と特定化し、それがカナダ、英国、豪州、ニュージーランドといったアングロ・サクソン諸国に共通したものだと分析した。今回の金融危機において、アングロ・サクソン型経済が行き詰った事実を、レギュラシオン学派は遠回しながら、喝破していたと言って良いだろう(余談ながら、BMA会員専用ページでは過去の主要記事が簡単に検索出来るので、結構便利である。これは宣伝)。
そのボワイエ教授は、今回の金融危機に関しては「フォーディズムにおける制度形態の相互補完関係」の対比で捉える必要がある、と述べている。以下、藤原書店の季刊誌「環36号(2009 Winter)」の特集「世界大恐慌か?」に収められた対談を参照しながら、教授がこの金融資本主義を歴史的にどう捉えているのかをご紹介しよう。
因みに、この知る人ぞ知る地味で質の高い季刊誌の特集には、筆者も寄稿させて頂いた。駄文も多いのがこうした雑誌特集の欠点だが、同誌はエマニュエル・トッド教授との興味深いインタビュー記事もあり、歴史的観点からの金融分析に興味のある読者には是非一読をお勧めしたい。
閑話休題。一般にフォーディズムは、米国が成長期に築いた大量生産・大量消費型の経済体制を描写する為に、フォード社の名前を冠した用語として使うことが多いが、レギュラシオン学派は1945年の第二次世界大戦から1970年代の石油ショックまでの時代をフォーディズムという言葉で定義づける。生産性上昇、賃金上昇、消費拡大、投資増大という今から考えれば涎の出そうな好循環時代である。
ボワイエ教授は、「フォーディズム」は賃労働関係の制度化された妥協によって生産と消費の能動的な関係が維持されてきた、と見る。その時代が終焉し、1980年代以降の「金融資本主義」においては賃金・金融レジームが優位に立つことによって、以下のような変質が生じた、と述べる。
@ 投資レベルの決定者が、国民の消費需要水準から資本の収益性(RoEなど)に変わった。
A 金融の高収益追及により、雇用・賃金調整が素早くなる。その不安定化を資産効果が補うようになる。
B 年金など社会保障制度が株式市場に依存する積み立て型に移行し、普遍主義的な制度原理から離れていく。
C 中央銀行の果たす役割も変化し、金融安定を最優先させることが期待される。
その結果、成長の中心には株式市場が座ることになり、家計消費も金融資産に依存するようになる。実質賃金は低迷したまま、株価が投資や消費の水準を決定する。つまり、フォーディズムにおいては「付加価値創造」が投資決定の要素であったが、金融資本主義においては「市場が評価する将来の富の先取り」が生産を決定することになるのだ、とボワイエ教授は力説し、このアングロ・サクソン型をドイツや日本などが取り入れようとしたのは「完全な認識不測だった」と分析している。
◆ 金融自由化のロジック
1990年代の不良債権時代を乗り越えた日本も、結局はバブル型米国消費経済のデフレ阻止の為の金融フル回転に支えられて成長率を取り戻したに過ぎない。ボワイエ流に言えば、自力で経済モデルを作り出せなかったのは、出来もしない「アングロ・サクソン型」を目指したからだ、ということなのかもしれない。この点では、筆者もまた「アングロ・サクソン金融」の虜になっていたことを告白せざるを得ない(但し、その金融は「悪魔の方程式」だ、といった論評には与しない)。
もっとも金融危機においては、金融という仕組みの中に不安定性が組み込まれていることが過小評価されたことも指摘されるべきである。実務を離れて権威付けされた金融工学は、安定性への盲信を伝染させた罪を免れることは出来ないだろう。以前からボワイエ教授も、金融資産評価に根源的な不安定性がある限り金融自由化のロジックが金融の暴走をもたらす危険性があることを指摘していた。
教授は、メディアでよく見かける強欲とかモラル・ハザードなど経済主体の倫理性を糾弾する以前の問題として「金融不安定性のロジックこそが問われるべきなのだ」と主張している。同感である。金融工学は、金融こそが経済成長の原動力になりうるという集団的意識を通じて、銀行やベースマネーは不要だとの幻想を生んだ。ここにレバレッジ活用が普遍化していくのだ。リスク分散を求めた筈の金融先端技術は、正反対の金融不安定化を生み出してしまった。
もっともボワイエ教授は、単純な市場原理批判者ではなく、危機は資本主義の宿命だと嘯く伝統的批判論者でもない。市場か規制かといった二項対立は不毛だと切り捨てて、市場と政府の制度的補完関係こそ重要なのだと説く。その軸足を商業銀行機能に置きつつ、証券化を組み合わせた金融モデルの再構築が必要だと述べている。そして技術的イノベーションから生まれる新商品は、必ず公的安全性基準を満たさねばならない、と述べて金融もその例外ではない、と指摘しているのが注目される。金融も、その革新性を社会の改良に背かぬように誘導する規制を排除してはならないのだ。
いま、社会は安全性の議論に満ちている。トラックのタイヤが外れ、ギョーザには毒が混入し、街中では通り魔的な殺人が多発している。人々の資産額を半減させた金融も同じ範疇の話であるが、今もってそれに気付かぬ人が少なくないのは、金融業界内における社会的教育の貧困を示すものだ。確率論や偏微分方程式、あるいはシミュレーションで世界は再現できない。経済学がバブルの歴史をまともに教えないことも大いなる問題であろう。
ボワイエ教授は、米国が新しい成長モデルの提示のためにフォーディズムにおいて世界に示したプラグマティズムを発揮できるかどうか、疑問視している。同時に欧州に指導力は期待できず、日本に至っては未だに「ニューエコノミー」から脱却できていない、と批判的だ。いったい、誰が「人間主導型成長」への道標を打ち立てられるのか。その回答は、サブプライム問題発生から約2年経過した今でも、まだ見えてこない。それこそが、レギュラシオン学派が浮き彫りにした危機の本質であると言えようか。