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◆ カミとしてのマネー
◆ ゴールドへの逃避
人はいつでも現実逃避したがるものである。そこまで行かずとも「日常からの逃避」という願望はいつでも持っている。だから休暇を取って旅行したり、休日にコンサートや美術館、あるいは映画館へ行ったりしてリフレッシュする。筆者もロンドン勤務時代に相場に疲れてカジノへ行く、という生活を送っていた(若い)時期もあったが、同じ「賭け」でも種類が違うのでこれも立派な気分転換であった。
もっとも、現実逃避という言葉にはもっとネガティブなニュアンスが漂う。時には精神的な病に至るケースもあり、また大澤真幸が指摘したように、「虚構への逃避」が次段階の「現実への逃避」という新たな展開へと向かっている現象も見られる。現実が虚構化され始めたからだ。そこでは、貨幣という現実の虚構化も結構な速度で進行中である。
資本主義は、貨幣の交換価値を見事なまでに結晶化させた制度である。現代人が依拠するこのシステムは、アダム・スミスやマルクスが悩みぬいた利用価値と交換価値の間の不連続性を、新古典派の限界革命を利用して粉砕してしまった。その延長線上に、現在価値一本で仕事をしてきた我々の存在がある。現在価値は確かに観察可能ではあったが現実像ではなかった。その虚構性が暴かれたのがサブプライム問題だといっても過言ではない。
その輝きを失った価値を直視するのは実に辛いことである。そして、飽くまで虚構性を否定しようとしない金融の将来像を予想するのはもっと辛い。その虚構の象徴ともいえる貨幣に対する信認が失われようとしているのは、きわめて自然な成り行きであろう。ゴールド価格は2,000ドルへ上昇するとの予想がしばしば聞こえるが、これは1年前の原油200ドルに比べればもっと信憑性が高いように思えてしまう。
ゴールドの人気上昇は、ドル不安とかインフレ期待とか実物資産選好とかの個別材料はあるにせよ、その根底には、虚構が織り成す現実の直視を否定する人々が増えている、という事実があるのだろう。つまりそれは、大澤のいう「現実への逃避」さえも否定する新たな社会現象を示していると言えるのかもしれない。
貯蓄から投資へという稚拙なスローガンは、その「現実への逃避」を推奨していたように思えてならない。年寄りはともかく、若い世代が自分へ投資しないで老後に備えた資産運用を行うとうのは、まさに虚構渦巻く現実への逃避であったのだ。だがゴールド価格の急上昇は、通貨で計測される資産に何の意味があるのか、との警告に等しい。みな、「現実への逃避」の倒錯性に薄々気付き始めたのではないか。
カネは重要だが、その重要性は存在自身や量にではなく交換性にあったのだ。それは経済思想史が示すとおりである。交換に慣れた世界では、交換性が過小評価され、量的尺度のみが重視されるようになる。金持ちは、その事実だけを以って本当に豊かだは言えないのに。
金融危機は、プロですらカネの本質、つまり交換性(流動性)を軽視していたことをさらけ出した。そして流動性危機と信用危機を繕うために、中銀に深刻なしわ寄せが来ている。それは、ゴールド価格が上昇する中で、まるで資本主義に「現実の虚構性が破壊される日」を刻印しようとしているかのようだ。
◆ 宗教的な貨幣経済
貨幣とは紙切れであると同時に神の役割をも演じている。「カミとしてのマネー」は、まさに神社の一角に納められたご神木のようなものである。信じるものは救われるというが、「カミとしてのマネー」はその交換性において信仰が成立しているに過ぎない。宗教上の神が人々に与えたのは安らぎであったが、貨幣に宿った神が社会に与えたものは交換の長期安定性であったのだ。
交換性の話など、重商主義を徹底的に批判したアダム・スミスや重農主義を唱えたケネーを読めば書いてある、というのはその通りだが、現代社会には必ずしもその考え方が受容されていない。個人の富は保有する「金融財産価値」で計られ、アジア諸国には日本を含めて(欧州はドイツでも)輸出こそが国益という信念が染み付いている。そこで稼いだ外貨はなんら交換に活用されることなく、徒に米国債を買い続けて世界的金融危機のお先棒を担いでしまったのだ。
個人にしても、保有する金融資産で何が交換できるのかを真剣に考えないで、ひたすら交換価値そのものの増大に努めてきた。交換価値の経済がいずれ行き詰るのは必然であったが、人々は利用価値を忘れた価値計算にもっぱらエネルギーを費やしてきたのである。そして、ついに交換経済の「神」として貨幣の存在自体を信仰し始めてしまった。紙としての貨幣は、神としての貨幣という誤認によって生き延びようとしたのである。
貨幣が嫌われてゴールドが好まれるという信仰の崩れの中にも、交換性への意識を汲み取ることは難しい。ゴールドもまた換金されねば生活の役には立たないからだ。ゴールドへ投資する人は、いつでも換金できると考えているのだろうが、大恐慌時に米政権は個人が金を保有するのを禁止したこともある。となればいつか売却禁止という荒業が導入されても不思議ではない。交換できない資産の交換価値はゼロなのだ。それは市場売却できない利用価値の無い証券化商品の交換価値がゼロに等しいのと同じである。
にもかかわらず、ゴールド人気は通貨不安の一側面として継続するだろう。筆者も数年前に田中貴金属へ現物を買いに走った一人である。その行動原理は、怪しいものから身を守るという、理屈では言い表せない直感的なものだ。それは神としての交換性にすら、もはや信頼が置けなくなった、という現代病かもしれない。
貨幣でもゴールドでも、交換性という神が「死んだ」のならまだ手にとって重みのある方が良い、というなんとも原始的な選択が始まったとすれば、現代社会は極めて厄介な問題を背負い込んだといわざるを得ない。