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◆ おカネは「存在」するのか
◆ おカネを持っているという意味
地下鉄に乗っていたら、「マネーは英語よりグローバルな存在だ」という某新聞社の広告が目に留まった。まあそうかな、と思わせるキャッチコピーだが、よく考えるとこの文章は二重の過ちを犯しているように思える。
まず英語、すなわち言語を存在と見做している点である。言語は、生物を存在たらしめるための手段であり、存在そのものではない。そしてマネーもまた存在だ、と言い切れるかどうか、大いに疑問である。マネーすなわちおカネは、果たしてその実存性を証明できるのだろうか。
今回の危機の中で、銀行は流動性不足、企業は資金不足に悩まされ、景気は金融のネガティブ・スパイラルの中に沈没していった。中銀は懸命に流動性を補給する。だが仲介機関で目詰まりし、不動産など優良担保さえも毛嫌いされて末端血管に血液が流れない、という悲惨な目に逢った。これをすべて銀行経営の責任に擦り付けるのも酷な話である。世相は少し改善してはいるものの、危機の後遺症は想像以上に厳しい筈だ。
本質的には、刷り過ぎた貨幣の副作用への解毒剤を持たない中銀、機能を果たせない銀行システムを放置している政府、天下り的にその制約を施しているバーゼル合意、そして現代銀行制度の代替システムを提言できないアカデミズムや金融問題の本質を抉り出せないメディアの責任でもあるのだ。それは現代人がマネーの意味をとことん考える、という訓練をしていないからだ。
おカネとは一体何なのか。なぜおカネは日銀から「出現」して銀行を「介在」させる必要があるのだろうか。話題の政府紙幣と何が違うのか。やや専門的に問えば、中銀の紙幣と中銀の債券(FRBは今でも検討中と聞く)とは何が違うのか。もっと言えば、地方銀行は地方紙幣を出してはいけないのか。
おカネとは何だろうか、というのは永遠の課題である。マルクスがあれだけ懸命に貨幣の意味を考えながらも、決して思考の最終到達点までには達しなかったことが、その神秘と困難を象徴している。おカネは、信仰という側面を除けば説明困難な代物だ。法律で決まっているという説明は十分条件を満たしていない。だからおカネの機能を上座に祭って放置する経済理論も本当に信用出来るのか、実はよく解らない。おカネの実存性は極めて不確かである。
私がご飯を食べている、というのは疑いの無い事実である。同様に、私がXX銀行に20万円の普通預金を持っているというのも事実であるが、その現実は決して預金という存在の実存性を担保するものではない。確かに通帳には20万円と刻印されてはいるが、それは子供が画用紙に1万円札を20枚描いたのと何が違うのだろうか。
実際に本物の金融危機が来れば、銀行から預金は下せなくなる。預金保険の上限も定められており、10百万円以上の数値が記入された通帳を持っている人は、超過分は消滅する仕掛けになっている。紙幣も60%以上毀損してしまえば紙屑と同じである。
その上、その「消滅方法」も法律が変わればまるで手品のように変わってしまう。法律が変わっても多分食事は出来ると思うが、おカネは簡単に消滅するのだ。これを人々は実存と呼ぶだろうか。
20万円の預金通帳は、ある仮想空間のルールに基づいた幻想の果実でしかないのである。金融工学だけを虚像だと笑い飛ばすのは無知である。その「非実存」なる流動性を求めて世界中の企業が銀行へ、世界中の銀行が公的資金へと殺到したこの「狂気」を、我々はいったいどう解釈すれば良いのだろうか。
◆ 流動性という幻想
サブ・プライム問題は、投資銀行やヘッジ・ファンドなどのシャドー・バンキングの解体を招き、金融危機というコンテクストを通じて「流動性危機」なる現象を作り上げた。
その「流動性」とはそもそも中央銀行というダムから流れ出したものだ、と言われる。それが末端にまで届かないということは、誰かが独占しているか、どこかで目詰まりしているか、或いは大きな穴が開いて洩れているか、である。
確かに銀行は自己資本比率維持と貸倒れの回避の為に、資金を金庫の中へと積上げる。なけなしの「流動性」は片端から優良企業がさらっていくので、「その他企業」には「お零れ」もない。流動性に関しては、ダムと一般社会は分断されている。だが流動性そのものに実存性がないとすれば、問題は分断性ではなく「幻想としての流動性」にある。流動性とは所詮、現代資本主義がその成長維持のために作り出した映像に過ぎないからだ。
金本位制の時代には、ゴールドという「存在」があった。その存在は、マネーに取って代わられた、というのが金融の基礎知識であるが、そこには大きな幻想の導入があったのである。
以前も述べたように、クレジットこそが現代金融の主役である。エクイティはその周辺を旋回している惑星のような存在である。マネーはゴールドから遊離した瞬間に、まずクレジットの写像となった。逆に言えば、クレジットがゴールドに呪縛された金融を解放した時点で、マネーの存在は消えて幻想としての流動性が生まれたのである。
歴史書を紐解けば、その奇跡を生んだのがスウェーデンのリクスバンクであることがわかる。Niall Fergusonの「The Ascent of Money」に拠れば、為替取引と融資取引を組み合わせたイタリアの古典的銀行モデルから預金準備に基づく銀行貸出モデルへと華麗な脱皮を見せたのは、オランダでもイギリスでもなく、17世紀のスウェーデンであった。ここに幻想としての流動性が生まれ、マネーは実存ではなくなったのだ。それは「中世的金融工学」の産物なのだと言えなくもない。
但し虚像がこれほどまでに重要視されるのは、それが交換手段として認められているからだ。その本質はスワップやオプションの原理と同じである。だからこそ、企業や銀行は必死に流動性を求めるのだろう。交換可能性こそが狂気の正体だったのだ。だが交換それ自体は幻想でも虚像でもない。
交換という実存性を現代的マネーという幻想が裏付ける、というのは社会的矛盾なのではないか。マネーはやはり「超越的実存性」を与えられるべきではないか。その考えは信用の無限創造というプロセスを否定するだろうが、それこそ恐慌を防ぐ唯一の方法論でもある。マネーの実存性を保ちながらクレジットを維持させる方法はある筈だ。それを「担当」するのは、必ずしも現代の銀行モデルだとは限らないのだが。