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◆ 日本経済と赤の女王仮説

◆ 魔法無き現代経済

1989年12月29日に日経平均が38,915.87円で引けてから、もう20年以上が経過したことになる。当時、その20年後に日経平均が10,000円前後で右往左往していると予想した人は皆無に等しいだろう。いま20年後の日経平均を人々はどう予想するだろうか。筆者も長期予想には自信が無いが、流石に1989年の最高値を更新するという予想は無謀だと感じる。せいぜい20,000円まで戻ってくれれば御の字ではないか、というのが希望的観測で、より悲観的に見れば、10,000円前後を維持していればまだ良いほうかもしれぬ、とも思う。

もちろん、夢は持つべきだ。近代以降の社会は限界に突き当たりながらも科学技術でその壁を打ち破ってきた。産業革命、輸送革命、IT革命などは生産性の大きなジャンプをもたらした。今後、「グリーン革命」や「IP細胞革命」が起こる可能性もある。だがそれが実際に経済を押し上げるにはまだ10年単位の時間を必要とするだろう。金融手法には時として魔術的な手法が現れることもあるが、実体経済に魔法はない。

魔法と言えば、ゲーテの傑作「ファウスト」の第二部で、悪魔メフィストフェレスに魂を売ったファウスト博士が、悪魔の魔力を借りて見事に神聖ローマ帝国の経済再建を果たす、というくだりがある。国家の財政窮乏は今に始まったことではないのだ。

メフィストフェレスは若年未熟な皇帝に簡単な方法で経済再建できる方法がある、と囁いて皇帝の関心を引き寄せ、ファウスト博士を宮中に引き入れる。その方法とは、地下に埋もれた(ありもしない)無限の宝を担保に紙幣を刷ることである。皇帝は仮装遊戯に陶酔した隙に証書に署名させられて、一夜にして紙幣数千枚が市中に配られることになった。市民は大喜びで「飲めや歌え」の乱痴気騒ぎを起こし「経済は活況を呈する」ことになった。勿論、その皇帝は騙されたと知った人民による反撃に遭う。信用貨幣は魔法なのだ。まるで21世紀の金融制度を予言するかのようなゲーテの想像力である。

その後この物語は、ファウスト博士の悲劇に向かって進んでいくが、本題とは離れるので、深追いするのは止めよう。但し、最後の最後でファウスト博士の魂が悪魔の手に落ちることなく神に「救済」されるのは、「瞬間」に向かって「留まれ、お前はいかにも美しい」と叫ぶほどの最高の瞬間を得るべく不断の努力を続けたからである。そんな高尚な精神も無く政策と相場に依拠する金融機関が容易に「救済」される現代はやはりどこか狂っている。

閑話休題。魔法もなく、妙手もなく、たぶん欧米など先進国の実体経済は日本の失われた10年(或いは20年)と同じ道を辿ることだろう。景気回復期待の根強い米国も、GDPベースで毎年3-4パーセントのプラス成長が維持できるような世界ではなさそうだ。下半期にかけてゼロ近辺での浮動を繰り返すことになるだろう。

日本経済も然りである。日銀は潜在成長率を1%未満としているが、実際にはゼロ成長やむなしというあたりが本音かもしれない。それは「XX革命」のような生産性に飛躍的なジャンプが発生するまで、まさに19世紀末の英国のように長期的に継続する可能性が高いように思われる。

目先の経済環境を見れば、人口減少のような悪材料がある一方で、中国経済のような好材料もある。そうした交差を踏まえてもし2%程度の成長が達成できるのなら、それは凄いことである。2%でも複利運用すれば35年で2倍になるのだ。2%は決して低成長ではない。

だが、日本経済にとっては2%ですら高いハードルなのである。そして欧米は、その日本経済の姿をコピーするかのように長い低迷期に既に入っていると見ても良いだろう。

◆ アリスの幻夢

以前にも指摘したように、現代経済は1873年から始まった長期不況と同じような構造に陥っている可能性が高い。仮にそうだとすれば、なんとか上手く現状維持出来ればそれにこしたことはない。それは「鏡の中のアリス」に出てくる「赤の女王」が、アリスに向かって「ここでは、よいな、同じところにとどまっていたければ、力の限り走らねばならぬ」と語る風景を思い出す。

アリスは「速く、速く」と赤の女王にせかされて、息が切れ、目が回るほどに走る。走った挙句、立ち止まってみれば、最初に立っていた木の下にいる。アリスは「あたしの国ならとっくにどこかに辿り着いているわ」と不平を洩らすが、赤の女王は、走って走っていまのところにいるのは当たり前だ、と切り返す。鏡の国では、現状維持のためには全力疾走が必要なのである。

慶応大学の池尾教授に拠れば、これは進化論でも「赤の女王仮説」と呼ばれているらしい。生物が生き残るには絶えず進化し続けなくてはならない、という仮説である。走り続けることによってのみ、生命は維持されるのだ。現代の経済もたぶん、似たようなものなのである。この仮説は軍拡競争などの議論にも応用されているらしいが、専門外なので詳しいことは知らない。そのうち、弊社の軍事オタク部門であるミリタリー研究会に調査して貰う事にしよう。 

そもそも経済は絶えず成長しているべきもの、と考えること自体が奇妙なことなのである。成長に必要なのは、資本と労働力と生産性だと言われるが、そうした要素が定率的に拡大すると考えること自体に無理がある。実際に、各要素が毎年必ず数パーセントの成長を生むという強引なシステムは、循環的な不況や恐慌によって調整を余儀なくされてきた。おそらく中国も近いうちにこの悲惨なサイクルに巻き込まれるだろう。

成長には限界があることを、ローマ・クラブの「成長の限界」は1972年に世界に示した。それは人口、工業化、食糧、天然資源、環境という五つの視点から、成長にはおのずと限界があることを示していた。大学時代にこの本を読んで得た衝撃は今でも忘れられない。だがその問題意識は完全に忘れられてしまった。その主因は、1971年のニクソン・ショックにあった、というのが筆者の見立てである。これは次回のテーマにしよう。

ドルが金とのリンクから外れて、経済社会は金融というフリーハンドを得た。それによって成長の限界期限は30年以上も引き延ばされたのである。その魔法は、まさにメフィストフェレスが皇帝に与えた通貨を髣髴させる。その宴が厳しい惨状をもたらすことを、一昨年以降我々は見てきたばかりなのに、まだその過去を忘れられずに魔法の世界へ戻ろうとしている国があることに、驚かずにはいられない。

ローマ・クラブの予言は決して外れてはいない。バブルの発生と崩壊を教訓として、ゼロ成長でも悲観することなく少しでもプラスが稼げるようにアリスのように全力疾走を続けることが、たぶんいまの我々に与えられた課題なのである。

2010年1月29日(第213号)