HOME > 2010 |
◆ 先送りされた「成長の限界」
◆ ローマ・クラブ再訪
前回、ローマ・クラブの「成長の限界」に触れた。この本は、大学時代に読んだ経済関連の本で、その内容を仄かに覚えている数少ない書籍の一冊である。別に当時から環境意識が高かった訳ではない。本書の「人類の成長には限界がある」という強烈で否定的なメッセージが頭にこびりつくように残ったのである。
この本の存在を突然思い出したのは、実は昨年11月末に発生したドバイ・ショックの後である。不動産バブルに塗れたドバイ・ワールドの「債務期限延長願い」は、それ自体は騒ぎ立てるほどの問題ではなかったが、不動産を梃子に成長を図ろうとした経済モデルの失態を浮き彫りにするとともに、現代社会が抱える「成長源泉の喪失」という問題をあらためて考えさせられることになった。
ドバイには石油も無く、金融と観光で成長基盤を築こうとしたことは周知の通りである。普通はそんな事業計画にカネを出す銀行は無いが、ドバイの隣には石油で溢れかえるアブダビがあり、両首長国はUAEという連邦で結ばれており、たぶんドバイに何かあればアブダビが救済するだろうと期待した顛末が「ドバイ・ショック」であった。
これは、ギリシアがデフォルト危機に陥ってもユーロ圏の問題として欧州は救済するだろう、という期待(甘えまたは幻想)に等しい。ユーロ圏には「No Bail Out」条項があるが、仲間を簡単に見捨てるような共同体はあるまい、という訳である。金融は、一方でリスク管理強化が課題と言いながら、結構こうしたルーズな側面をも少なからず持っている。
問題は、資源や工業力のないところに潜在成長力はなく資金は流れない、という現代金融の基本構造である。ドバイには隣の資源が担保になってバブリーな不動産事業にカネが付いた。だがドバイ・ショックでそんな成長性は幻想だとみな気付いてしまった。一昨年は、米国における借金による消費などマヤカシ成長に過ぎないということが暴露されてしまった。中国の急速な成長は、どうやら過剰な生産によるものだという実像が次第に明らかになりつつある。昨年来の先進国経済回復も、ケインジアンとマネタリズムの徹底した鎮痛剤療法が奏功しただけであることが漸く認識され始めている。
どうやら世界経済は成長の限界を再認識するときが来たようだ、とうすうす感じ始めている。市場では年末年始に米国の景気回復、中国の成長継続といった景気のよい話が舞っていたが、流石にどうも事情は違うのではないか、という雰囲気も強まってきた。
ローマ・クラブは1972年に「成長の限界」を発表して警戒信号を放ったが、それは米国が作り上げた金融力によって約40年間先送りされて、漸くいまその実像が眼前に現れている、と見るのが適切なのではないだろうか。
◆ 金融力再考
1971年にニクソン・ショックが起こり、1972年に「成長の限界」が公表され、1973年にブラック・ショールズ論文が発表された、というのは何とも言えぬ因縁深さを醸し出している。金融政策は金の呪縛を解かれ、金融業界はリスクを商品化することに成功し、金融自身が利益生産主体として自己増殖する術を掴んだのが1970年代である。その金融力は1980年代に大いなる発展を遂げ、1990年代に黄金期を迎えたあと2000年代に破局へと至る、というプロセスを辿った。
筆者はこの金融力の発展自体の意味を否定しない。資金調達を効率化させるという側面から労働分配を通じて「豊かさ」をもたらしたのは事実であるからだ。だが、その反面の資金運用に関して言えば本来的な「豊かさ」が発生したかどうかに関しては自信が無い。それは、単なる資産効果による空虚な消費拡大をもたらしただけなのかもしれない。
資産効果による消費は、「先食い」以外の何者でもない。割賦販売も確かに「先食い」であり、アングロ・サクソン流の金融力がその浮力になったのは事実であるが、それはせいぜい将来の賃金収入を前倒ししたに過ぎない。それに比べれば、資産効果による消費は、「株高・不動産高」という盲目的成長理論の残滓から零れ落ちた虚数的成長に過ぎないのである。
ローマ・クラブの限界論を吹き飛ばしたのは、米国特有の金融力であった。その「先食い成長」は、日本や中国などの過剰生産体制を導き出し、我々もお零れに預かった。もっとも政治家や経済学者の一部は、現在の需給ギャップを需要不足だと主張してメディアの関心を誘い、政府支出を正当化するキャンペーンを張っている。さらに日本は「デフレは金融問題だ」と言い張って日銀に無理な要求を押し付けようとしているのが現状だ。
英米が育んだ金融力は、19世紀初頭から始まったGDPのジャンプに大きな浮力を与えてきた。資金の付くところに成長あり、である。戦後日本も、カネがついたからこそモノづくりが支えられ、高度成長が遂げられたのである。それは決して「先食い成長」ではなく、最終需要速度に見合った成長であった。バブル崩壊後、低成長に甘んじているのは当然のことなのだ。
その一方で米国は、何度かの景気後退を経ながらも、GDPをハイペースで増大させていく。今回の景気後退ももはや終焉したと言いながら、「景気回復」への道を辿ろうとしている。だがもはや米国に「先食い成長」を継続する力はないだろう。1970年代に「株式は死んだ」と言われながら、その後急上昇した米国株を支えたのはまさに「先食い成長」であるが、これを生んだ金融力は恐らく再生不能である。大手投資銀行は決算上復活したように見えるが、それはリスク・テイクで生きる短命な珍生物なのである。
成長の限界説には、様々な批判・反論もある。新興国経済や金融力再生で限界が再び先送りされるかもしれない。だが重要なのは、「ボルカー・ルール」への賛同に見られる如く、金融力が経済的原点に戻ることを社会が要求し始めていることだ。その機能は「先食い」ではなく「GDP拡大」でもなく、完全雇用と物価安定の中での平和的発展の実現に資すること、つまり原始経済学が目指した理念の追求以外の何物でもない。