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◆宇野恐慌論の予言性
◆ 「恐慌」イメージの復活
大恐慌の再来は回避されたが、現代においてほぼ死語になりかけていた「恐慌」という言葉が蘇ったことの意味は小さくない。そもそも「恐慌」はマルクスが資本主義の宿命たる末期的症状として描いた経済の収縮状態であり、反マルクスの旗を掲げたエコノミスト達は、如何に資本主義が恐慌を回避避けうるかという論題に挑戦してきた。
ケインズは政府の財政出動という技を編み出して恐慌を救う道を開き、戦後の英米流経済学は市場化による経済の安定化を理論付け、それを実践に移してきた。米国を中心とする先進国経済は、70年代のスタグフレーションという危機に陥ったものの、大恐慌の再来を防ぐことには成功し、マルクスの罠からの脱出を達成した、と自負してきた。現場主義者として仕事をしてきた筆者も、現役時代は「マルクスは完全に時代遅れになった」と考えていた。
だが21世紀に入って、世界経済は恐慌とは言えないまでもそれに近い恐怖を味わうことになった。それは、マルクスの予言が決して的外れではなかったことを示すものであった。マルクスの、資本主義の滅亡と共産主義の登場という唯物史観的な予想は確かに大きく外れたが、景気循環として恐慌が避けられないという分析は見事に当たった、と評価せざるを得ないだろう。
だが、マルクスの恐慌論は完成されたものではない、と言われる。大著「資本論」では商品経済の説明に時間を費やし過ぎせいか、景気循環の中で恐慌が発生するメカニズムとしての記述はやや中途半端に終わっている。「資本論」では、恐慌が必然的に発現する根拠として、生産過剰や消費力の限界によって引き起こされるという面と、労働人口に対する資本の過剰蓄積という面の二つが挙げられたが、一般的には前者を根拠とした論考が普及していた。
つまり、資本主義のもとでは好況の際に銀行融資などの信用増を通じて生産が拡大していくが、いずれ生産は消費を超える水準にまで膨張する。好況とはいえ、給与所得には限界があるので消費水準にも上限がある。従って、景気循環が発生して経済が恐慌に陥るというメカニズムである。
だが、それならば価格調整によって生産量が減少すれば済むことだ。市場経済をモデル化した経済学は、そう主張した。先物などの機能が豊富な金融市場においては、合理的な選択をする人々達によって価格の正常化が維持される、と見た人もいた。1980年代以降、市場が万能の調整機能であるかのような雰囲気が強まったのは、必ずしも妄信ではなく、実際にそれが上手く働いていたからである。
ではなぜその市場経済モデルが持続しなかったのか。そのヒントは、マルクスが掲げた恐慌の二番目の根拠である「労働人口に対する資本の過剰貯蓄」にあるのではないだろうか。その点を掘り下げたのは、日本が誇る経済学者の宇野弘蔵である。宇野は「恐慌論」において、労働力の商品化こそが恐慌の主因であることを力説している。
◆ 恐慌は避けられない
宇野弘蔵といえば、資本主義を「原理論」「段階論」「現状分析」の三段階の構成に分けて論じたことで有名だが、難しい話はさておき、その著書「恐慌論」が岩波文庫から復刊されているのを見ると、世間がマルクス経済学への関心を強めているのが解る。本書の中で、宇野はマルクスの思索を一歩進めて、恐慌に至るプロセスを「機械的な必然性」ではなく「歴史的な必然性」を持つメカニズムとして説明している。
その中心をなすのが「労働力の商品化」というキーワードである。労働力は本来的に商品ではない。資本が自在に作り出せるものでもない。だが労働力を商品化しないで資本主義は成立しない。資本主義は、労働力を商品として取り込むことによって初めて成り立つ社会制度であるが、それが恐慌を生む必然性を胚胎している、というのが宇野の理論である。つまり資本主義は、恐慌から逃れられない運命にあるのだ。
だがそれは、マルクスが示したような資本主義の必然的な崩壊に繋がる訳ではない。資本主義は厳しい局面を経て、また生き延びるのである。宇野理論は、社会主義や共産主義の必然性を説くものではない。むしろ恐慌の歴史的必然性を、資本主義に内在したものとして捉えている。それは、21世紀への鋭い予見であった、と言っても過言ではないだろう。
宇野が示すのは、「元来は利潤の一部を利子として分与せられるにすぎない貸付資本が、産業資本に代わって資本を代表するものとな」り、商品の過剰がこの資本の過剰となって現れると同時に、労働力の余剰が並存する恐慌の姿である。これを「豊富の中の貧困」と表現しているが、これはまさに日本や米国をはじめとする現代経済の実態そのものを表しているのではないだろうか。
日本では新卒大学生の就職難がトップニュースになり、欧州では若年層や移民の失業が大きな社会問題になっている。だが現代国家の中で「豊富の中の貧困」に最も相応しいのは米国であろう。危機を乗り切り経済は回復して株価も急速に戻る中で、雇用環境は一向に改善しない。二桁近辺の失業率は急速に改善する気配はなく、「ジョブレス・リカバリー」或いは「ジョブロス・リカバリー」といった言葉が飛び交っている。
米国の失業率の高さは簡単に収まりそうに無い、と見られている。日欧に比べて比較的楽観ムードの強い米当局者も、雇用問題になると途端にトーンが低くなる。2011年末時点でも失業率は9%前後にしか下がらない、との見方も強まっている。資本はあるのに雇用機会がないのである。まさに「豊富の中の貧困」である。
GDPで見れば米国は「100年に1度の危機」すなわち恐慌再来を回避したと言えそうだが、失業者にとって見れば「恐慌」以外の何物でもない。「労働力を商品化」することによる矛盾が爆発したのは事実であり、宇野が示した通り、過剰な資本と過剰な労働を並存させる事になった。
マクロ的に当面の「恐慌」が回避されたとはいっても、その二つの過剰の調整が円滑に進まない限り、米国が再び「恐慌リスク」に晒される可能性は残っていると見るべきかもしれない。