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◆新刊本のご紹介

このたび、ビジネス社から「危機第三幕」というタイトルの本を出すことになりました。怪しげなタイトルではありますが。。。その序章の一部を掲載させて頂きますので、ご興味ある方は、図書館でなく、出来れば本屋さんへ、是非に。(編集人)

<序章:100年に一度の危機は誤診だったか> から抜粋

ギリシアの悲劇は、約2,500年の時を経て、21世紀に復活することになった。2010年5月にギリシア政府はEU・IMFから総額1,100億ユーロの緊急支援を受けることになったのである。これは先進国が公的機関に救済を要請するという、極めて屈辱的なものであると同時に、その悲劇がギリシア以外の国々へと拡大する可能性を示唆するものとなった。

一般に、ギリシアの悲劇として最も有名なのは、ソフォクレスの「オイディプス王」であろう。この物語は、スフィンクスとの会話やフロイトの「エディプス・コンプレックス」の語源ともなったことでも知られるが、このオイディプスの悲劇は現代経済にも通じるところがある。

オイディプスは、デルポイの神託によって「自分の母親と交わり、自分の父親の殺害者になる」と告げられる。その予言に慄いたオイディプスは、予言の的中を避けるために親元を離れて旅に出た後、テーバイの王となった。だがやがてその地を疫病や不作が襲う。難局を脱するには前王の殺害者を追放せよとの神託が下り、オイディプスは予言者テイレシアスにその殺害者が誰なのかを問い詰める。

盲目の老予言者は、躊躇いながらも元凶が王その人にあることを告げる。オイディプス王こそ、自身が探していた父親たる前王の殺害者であり、またその母親と交わる宿命にあった本人なのであった。確かにオイディプスは過去に殺人を犯した。それが父親であったという驚愕の事実を知ったオイディプスは衝撃に耐えかねて、自害した母でありかつ妻でもあったイオカステの黄金の留め金で自らの目を突き、乞食となり、国を追放される運命を辿るのである。

オイディプスの不幸は、不吉なお告げが現実となることを避けるべく良かれと思って行った行為が、積み重なって生まれた必然であった。

現代経済は、「100年に一度の危機」「大恐慌の再来」といった不気味なお告げを振り払い、成長ペースを取り戻し始めたと思った矢先、ギリシア危機を契機として再び不安が世界に広がり始めている。慎重な日本政府や日銀さえも「二番底経済の可能性は薄れた」と述べていたが、その雲行き怪しくなっている。巨額の財政赤字が各国経済を追い詰め始めているのだ。

それは「100年に一度の危機」という不吉な予言の的中を回避しようと、各国が金融や財政などの政策を積極的にそしてやや乱暴に、繰り出した結果である。世界経済は、オイディプス王が辿ったような運命から逃れる術はないのだろうか。

各国の経済は、2009年秋頃から底打ち気配を示し、危機の爪跡を残しながらも、徐々に景気回復への軌道に向かい始めていた。GDPで見た各国成長率もプラスを取り戻し、株価は反転し、危機感も次第に希薄化していった。

だが景気回復を謳い上げる各国政府や株価上昇を囃す証券会社のアナリストと違って、企業経営者や個人投資家は、そうした経済回復が各国の金融・財政政策フル出動というカンフル剤に支えられたものだ、という警戒感を拭い去ることが出来なかったに違いない。ギリシアの財政危機とその市場不安の世界的な広がりは、やはり成長軌道が本物でないことを実証することになった。

金融危機と経済危機のあとに、財政危機という新たな危機が控えていることは自明であった。だが金融市場が財政危機を意識するにはまだ時間がかかるのではないか、と思われていたのである。2009年3月以降の株価の上昇は、財政危機に「点火」する前に自律的経済回復によってその危機は封じ込められるという、通常の景気循環的な相場感を反映したものであった。

だがギリシア問題の勃発は、そんな淡い期待を吹き飛ばしてしまった。GDPで見れば世界で第26位というそれほど大規模でない国の財政危機が世界の市場を揺さぶる大問題に発展したのは、それが他の先進国が抱える財政問題を鏡に映し出して見せたもの、という認識が広まっていったからである。

ギリシアの財政問題は、ポルトガルやスペインなど15世紀以降の大航海時代を牽引した国々や、歴史的遺産の宝庫イタリア、さらには19世紀に大英帝国を築いた英国にまで波及することが予想されており、いずれ世界最大の経済国である米国も深刻な局面に立たされる可能性すら指摘されている。

また日本は既に世界最大の借金国であるが、これまでは豊富で鈍感な国内金融資産に支えられて、財政への危機感は希薄化されてきた。だがその顕在化も時間の問題だと言われ始めている。先進国が揃って財政危機に見舞われる可能性は、刻々と高まっていると言わざるを得ない。頼みの中国経済において不動産バブルが破裂するようなことがあれば、先進国経済不安に火が付いて、2011年にも市場が耐え切れずに再び噴火する確率は決して低くはない。

民間経済を救った各国の金庫は見るも無残な状態になってしまった。危機に瀕した財政は「歳出削減と増税によって再建されるべきだ」というのはもっともなのだが、それが簡単に出来るなら日本はこんなに財政赤字を積み上げることは無かっただろう。他の先進国も同じである。現代社会の金融と財政には、政治的な「ポピュリズム的欠陥」が構造的にビルトインされてしまっているのである。

だから、程度の差はあれ、今後どの国でも財政問題に伴う危機は発生する。それは残念ながら次世代以降にも継承するしかない問題なのであり、危機が発生するたびにその欠点を少しずつ修正していくほかに、我々には道がないのだ。 

2007年以降危機が発生して以来、「何が問題なのか、どうすれば問題は解決されるのか」といった論点は十分すぎるほどに議論されてきた。だがその結果薄々解ってきたのは、肥大化した財政や金融を一気に縮小することは不可能だということである。現代人、特に先進国に暮らす人々は、急激な経済収縮には耐えられない。だから、財政は拡大したまま、金融は緩和されたまま、という状況からなかなか脱出できない。「失われた10年」は日本の専売特許ではなく、欧州へまた米国へと波及することは確実だ。

だが、財政赤字が拡大することそれ自体が国家的危機を生むとは限らない。日本の財政赤字がGDP比200%を超えても、危機的状況は起こらないかもしれない。経済成長や構造改革による財政再建の可能性がある限り、市場は巨額の借金を受容するものである。危機の引き金を引くのは「財政改善への期待が失望へそして絶望に変わること」であろう。

ギリシアがEUとIMFに緊急支援を受けた背景には、財政再建への絶望感があった。スペインやポルトガルが抱える問題もこれに近い。だが日本や英米などが難しい局面に立たされるのは、恐らく政治的に財政再建が受け容れられないことが明らかになる場合であろう。

サブプライム問題を契機としてリーマン・ショックが起こるなど、世界を震撼させた米国を震源地とする危機はひとまず最悪期を脱したが、それは危機の終焉では無く、単に第一幕が終了しただけのことであった。暫くの間合いを経て、ギリシア危機が第二幕の幕を開けることになった、と見るのが妥当であろう。

この第二幕の舞台は欧州である。既に様々なメディアは、ギリシアの次の市場のターゲットとして、ポルトガル、スペイン、イタリア、アイルランドなどの国々を挙げて、共通通貨「ユーロ」自体の問題にまで発展する可能性を報じている。

この危機は簡単に収束しないだろう。欧州通貨制度は、やや大袈裟に言えば、17世紀のヴェストファーレン条約から連なる欧州の厳しい歴史が凝縮されたものであり、ドルや日本円よりももっと根の深い問題を抱えているからである。

欧州は日本から見るとやや遠い地域であり、米国の危機と違ってその混乱の印象度は薄いかもしれない。だが欧州の経済・金融は、国際的な市場の中で米国とほぼ同等の大きなシェアを占めるものである。欧州危機は第三幕、つまり日本や米国を巻き込む「次の危機」を誘引するリスクを孕んでいることにもっと注意を払う必要があるだろう。

「100年に一度の危機」など間違った判断であったという診断は、まさにそれ自身が誤診であったのだ。危機の第三幕として「先進国が同時に債務問題に苦しむ時代」が到来する可能性は、徐々に高まっているのである。

マルクスはこう書いた。「ヘーゲルはすべての偉大な世界史的事実と世界史的人物は二度現われる、と述べているが、彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度は惨めな笑劇として(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)」。

金融市場はその至言どおり、危機第一幕に続いて第二幕を迎えることになった。だがこのままいけば、マルクスがその言葉の中で示唆していた「反復の構造」が数年以内に第三幕を引き起こす可能性は高い。その中軸は、2007年来の危機の震源地である米国だろう。

以下、序章はまだ続きます。。。。(編集人)

2010年9月3日(第228号)