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◆豆電球と銀行
◆ 銀行は必要か
もう40年以上も前、小学生のときに豆電球に電池を繋いでその明るさを確かめる、という実験をやった。それが気に入って電子工作に興味を持った。趣味はラジオ、ステレオアンプ、アマチュア無線とエスカレートして、最後はエレキギターの改造までやった。市販のギターの音色はせいぜい5色程度であるが、コンデンサーを幾つも使って14色にまで拡張し大学卒業のコンサートで披露したが、誰もその音色の変化を解ってくれなかった、というオチが付いた。
それはさておき、豆電球の世界は電子回路を極限まで単純化したものであり、それはまさに電流が流れる「原理」を教えてくれるものである。電池というエネルギー源と豆電球という現象の間を繋ぐのはコード(電線)しかない。でもそのたった三つの当事者は、産業金融を理解するものとして利用出来る。電池は資金、豆電球は産業、コードは銀行である。
いま、銀行の役割が深刻なまでに問われている。日銀が新貸出制度を導入したのは政治的ポーズであるにしても、銀行に対する不満がそこに無いとは言えない。銀行は、有り余る資金を国債に投資するしかないのか。産業へ資金を投入する力学はもはや働かないのか。
答えは簡単だ。そもそも銀行にそんな力がある訳がないのである。銀行は、豆電球の回路におけるコードのように産業と資金を繋ぐだけの導管であり、自ら産業を開拓するような役割は担っていない。受動的な電線が、勝手に豆電球を探すようなことはしないのだ。
銀行が重宝されたのは、産業という豆電球が生理的・本能的に資金というエネルギー源との接点を探していたからに過ぎない。大企業や担保力のある企業における資金需要があったから資金吸収力のあった銀行が必要とされたのである。いま、豆電球のように資金を欲しているのは、借金塗れの政府と信用力の低い中小企業だけである。
豆電球は電池を必要とするから、そこでコードが必要になる。だが、電池は別に豆電球を必要とはしない。それはモーターでも良いし、ラジオでも時計でも何でもよい。だがそれを探す役割が、コードに与えられている訳ではない。その回路設計は、国家や企業経営者らが担うものだ。銀行家の出番はいつもその後なのである。その結果としていま、銀行は国債を買っているのだ。
豆電球と電池の間には、その意味で明らかな非対称性が潜んでいる。だがこんにちの実体経済において、「産業と資金の媒介者としての銀行は資金を産業へ投入すべし」というかなり無理筋の社会的要請を受けているのである。
そんな役割を請け負ったつもりのない銀行は、ダブつく資金を口を開けて待っている政府へと流し込む。社会は、なぜ資金を必要とする中小企業にカネを貸さないのか、と銀行を批判する。だがコードでしかない銀行に、資金という貴重なエネルギーの効率的利用方法の発見を求めるのは土台無理な話である。優良企業は危機を経て手許資金を厚くしている。逆に言えば、資金がダブついている時代に民間経済における銀行の役割が急速に低下するのは至極当然なのである。量的緩和という政策に経済浮揚効果が無いのはもっと当たり前だ。これは欧米など、どの先進国にも共通する問題である。
◆ 銀行の信用力
銀行は信用が商売だといわれてきた。だが果たして銀行の信用とは何だろうか。それは一義的には預金者の安心感である。XX銀行に預けておけば、おカネが欲しいときには引き出せる。そこには自分と銀行の関係しかない。誰も銀行が自分のカネで何をしているか、と疑うことは無い。預金通帳に刻印された数字は、自分の所有権を表していると考えるからだ。
だがそのカネは現実には「流用」されている。自分の10万円の定期預金は、実は○○商事に貸し出されているかもしれない。だが預金通帳にはそんな企業の名前は決して出てこない。おカネは銀行の中で移転されているのに、あたかも金庫に保存されているように表現されている。自分のカネは傷付かないように保護されていると希望的に錯覚していることが、銀行への信用の実態なのである。その幻想を崩さないためにも、銀行は危ない豆電球を探しに出掛ける訳にはいかない。
さて、企業は手許資金を増やし、個人は預貯金をゴールドに転換し、政府は銀行とゆうちょに滞留した資金を借金返済に充てる。この構図の将来像の中で余ってしまう駒が中小企業と銀行である。本来は、その二社が結合することで金融版ジグソー・パズルは完成するのだが、残念ながら中小企業と銀行は相性が悪い。となればどちらかが変身せねばならない。
信用力に拘る銀行は変身できない。中小企業も自分の持ち場を離れることは容易でない。となれば豆電球たる中小企業は、新たな電線を探すしかない。そこに、エクイティという新しい産業金融をもたらすコードが出てくれば、問題は解決する。そんな簡単にはいかない、という批判は甘んじて受けよう。以下は、希望的な物語として読んで貰えればそれでよい。
新金融時代では、銀行・ゆうちょはともに国債購入基金となり、新しいエクイティ・プロバイダーが中小企業金融を司る。デット中心の産業金融はエクイティ・ファイナンスへとシフトするのである。但しここでいうエクイティとは単純な「株」ではない。
エクイティとは本来「持分」のことだ。つまり新産業金融は「金貸し」ではなく「企業保有者」となることで、経営に参画しながら苦しいときは無配当で凌ぎ、儲かるようになれば高配当をお願いする、という立場になる。これは中小企業金融における金利から配当への思考転換とも言える。
従来の銀行論のような「信用力に応じた金利設定の融資」ではなく、ファンドのような上場による転売を目的としたエクイティ・プロバイダーでもなく、企業経営者と二人三脚で「長期的に配当を高める戦略思考」を考える機能となる。これは地域金融の究極の姿でもある。
いまの銀行は、錆付いた銀行免許を捨てない限りエクイティ・プロバイダーになれないだろう。日銀の新貸出制度を見てもわかるとおり、銀行も結局「ブローカー」の域を出るものではない。日銀が信用創造するマネーを、銀行を通じて社会に送り込むという旧来の発想では、デレバレッジ社会における成長を促すことは出来ない。
議論すべきは、「銀行はどうあるべきか」ではなく「マネーをどう社会に浸透させるか」という、エネルギーの効率的配送方法の検討に似た制度設計論である。或いは我々は、デットとエクイティという慣れ親しんだ資本二元論から脱皮すべき革命的時期に来ているのかもしれない。
その模索は容易なことではない。だから、上記は希望的な物語に過ぎない。マルクスがいうように「ここがロードス島だ、ここで跳べ」という大跳躍でも無い限り、低成長・超債務時代の産業金融の閉塞感を打破することは出来ないだろう。今回の振興銀行の破綻は、その仮説を実証する一つの証左である、と言えなくもない。固定観念に包まれたままの「銀行批判」は、多分あと何年も聞かされ続けることになるのだろう。