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◆なぜ市場に期待するのか

◆ 異常性の持続性

異常だと思っていた状態が意外なほど長続きすることによって、いつの間にかそれが正常だと錯覚することがある。それが異常であったことを悟るのは、いつも覚醒した後のことである。

日本の1980年代のバブル経済はその典型であったが、海外でも同じような例は枚挙に暇が無い。2007年以降の世界を震撼させたサブ・プライム問題の一つの背景として、米国における異様なまでの住宅価格上昇が当たり前のように思われていたことを挙げることが出来るだろう。

「目が慣れる」というのは恐ろしいことである。日本の社会は、首相が1年も任期が持たずに退陣してしまう異常さすら、諦め半分に受け容れ始めている。また財政赤字の半端でない異常な水準に関しては、市場の平穏さを良いことにして、政治家達はまだ解決の時間はある、と高をくくっている。そしてゼロ金利という壮絶なまでに異常な事態にも、デフレだから仕方が無いか、と当然視する機関投資家も少なくない。どこか間違ってはいないだろうか。

異常が恒常化しても、正常にはならない。だがこれが正常なのだという幻想が一度作り出されると、それを論理や辻説法で打ち破ることが出来なくなる。

覚醒させる一つの要因は、外部ショックだ。国債増発にもかかわらず低水準を這い回る長期金利という「異常さ」は、いずれ日本国債の格下げや英米財政危機といった外部ショックの顕現化によって直撃されるのではないか。そんな不安を抱く人は徐々に増えているだろう。

或いは、財政再建は実は政治的に不可能ではないかとの疑念が確信に変わるとき、低金利構造が内部から崩れ始めることもあるかもしれない。過去の財政支出の際、政治家や経済学者の合言葉は「景気が回復すれば税収増や増税で赤字は解消する」というものであったが、そのメッセージの信頼性はとっくに喪失されている。日本国債よりも優良企業の社債や実物資産としての割安な不動産、あるいは新興国の国債などを選好するという投資判断は、決して間違いだとは言えない。

菅首相の掛け声にもかかわらず、日本の財政赤字拡大に歯止めは容易に掛からないだろう。ポピュリズムに染まった政治が、自発的に財政再建に向かうと期待するのは虚しい妄想である。だから、筆者は市場に期待を寄せるのである。財政赤字に警告を発せられるのは、政治家や経済学者でもなく有権者でもない。人間はそこまで強くない。暴走力のある市場だけが、国家の暴走を止めることが出来るのである。

◆ 金融市場の破壊力

既に何度か延べたことであるが、現代の金融市場は保守化している。株式市場は、本来マネーの根本的強度を破壊しかねない「量的緩和政策」を買い材料だと囃している。国債市場は、管理不能となった国債発行に対して寛容な態度を取り続けている。為替市場に至っては、ドルが安全資産だという殆ど理解不能の認識を表明している。

それぞれ市場も、実はそれぞれのリスクを承知した上で自らの存在を保守するために、狸寝入りのような騙された振りをしているのだ、と深読みすることも可能だろう。各国政府にとっても、その方が有難い。金融に関連するビジネス主体(銀行や証券、保険、投信、不動産、ヘッジファンド、経済メディアなどなど)も、敢えて文句を言う筋合いは無い。こうして市場は、怪しい政策を受容して生き延びようとする。つまり市場自体が、その辛さを「先送り」しようとしているのである。

確かにギリシアやアイルランドの債務問題に対しては、国債市場は「反乱」を打ち出して見せた。それによってドイツやフランス、そしてユーロ圏の外側にある英国すらも市場の破壊力を無視できなくなり、EUやIMFも漸く本気になった。これこそが市場本来の姿である。だがその一方で、同じように赤字を積み上げる主要国の国債に資金を移動するという、構造的な弱みも見せた。他に行き場がないからである。

金融市場の役割は、マネー・アロケーション機能である。その資金移動は一種の商品交換と見做すことも出来る。従って、アイルランド国債から米国国債へと商品交換が加速されることは、市場の自然な選択であるということは出来る。だが、問題はその価格が双方のリスクを反映したものであるかどうか、という点である。

アイルランドの10年国債が7%で売買され、同時に米国10年債が2.3%で売買されているということは、等価形態論を持ち出すまでも無く、その両者が通貨という共通尺度を通じて釣り合っている、ということになる。だが、米国の財政赤字を考えれば、この両者が本当に均衡しているのかどうか、疑わしいところもある。

市場を解説する人々は、米国債の安全性、流動性、信頼性といった要因を挙げて、その左右のバランスは正当化されると分析する。だがそれを客観的に実証する手段はない。前述したように、市場は「本当は釣り合っていないのは解っているが、均衡していることにしよう」と目を瞑っているだけだ、とも言える。

これは、政治の本質的問題に目を背ける有権者や、学生の不勉強を放置する学校、企業の不正会計に寛容な監査法人、金融機関に甘い監督官庁、などとあまり変わりがないのではないか。本来、金融市場に科された「アロケーション機能」を果たしていないのではないか。もっと言えば、財政赤字に警鐘を鳴らすことの出来る唯一の機能を、自ら損なっているに等しい状況なのではないだろうか。

マルクスは、資本主義の史的プロセスとしてプロレタリア独裁は必然と見て行動を起こした。それは失敗に終わったが、資本主義の修正には何らかの行動が必要であることを世界に示したように思える。やや別物ではあるが、ベトナム反戦運動にジョーン・バエズやボブ・ディランの音楽的存在は大きかった。これも一種の行動であった。

財政赤字という魔物を退治するのにも、行動が必要だ。それを成し遂げられるのは、政治運動でも言論活動でもなく、市場力学である。10年で1%にも満たないような国債に対する市場の暴走的反乱こそが、国家財政を破綻の崖から救い出す唯一の道なのではないだろうか。

2010年10月15日(第231号)