HOME > 2011 |
◆「国家対巨大銀行」解説
明けましておめでとうございます。本年も拙文にお付き合いのほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
今月下旬に、ダイヤモンド社からサイモン・ジョンソン教授らの共著である「13 Bankers」の翻訳が刊行されることになった(邦題:「国家対巨大銀行」1月28日刊行予定)。その解説を書く大役を仰せつかったので、米金融問題のおさらいも兼ねて、その抜粋を同社の許可の下でご紹介させて頂きたい。読者の皆様にも、是非ご一読をお勧めしたい一冊である。
<解説>
2009年の秋に米国金融機関のビジネスをテーマにした学会で発表を終えたあと、先輩のある教授と一緒に乗り込んだバスの中でアマゾンの「キンドル」を見せてもらい、自分も欲しくなって早速帰宅後にパソコンを叩いて買ってみた。何冊か経済関連の本を読んでいくうちに、本書(原書:13 Bankers)に出会うことになる。金融と国家の関係式に強い関心を抱いてきた我が身にとって、それはまさに急所を突かれたような衝撃であった。
2007年のサブプライム問題発覚から始まって2008年のリーマン・ショックで大恐慌の再来か、とまで恐怖感を掻き立てた金融危機は、ウォール街の強欲や超緩和に傾いた金融政策、杜撰な住宅金融の蔓延、或いは金融工学の失敗といった金融面で説明されることが多かった。その一つ一つを見れば、確かに危機を構成した要素であることは間違いなさそうである。だが、こうした金融的要素が世界経済を根底から揺さぶるほどの戦慄を引き起こした背景は、やはり政治との接点を探らねば見えてこない。
一つのヒントは、本書でも詳説される米政府が見せた大手金融機関への寛容なる救済策にある。リーマン・ブラザーズは破綻したものの、その後の金融支援は「透明性」や「必要性」という意味において、実務上やや疑問を感じざるを得ぬところがあった。なぜそこまで大手金融を支援しなければならないのか。その答えは、金融システムの大混乱や経済底割れへの懸念、というだけでは説明が付かないところがあった。
そこには、日本では到底信じられぬような米国金融業界の姿がある。「金融は産業界に資金供給するセクター」といった考え方では、米国金融を正確に理解することは出来ない。金融業界は政府を利用し、政府も金融業界に依存せざるを得ない、という怪しげな二人三脚の構造こそが米国経済の根底にある。それが現代米国の成長エネルギーであり、また同時に危機を呼び込むマグマでもある。
本書はそこに正面から切り込んでいく。現代金融への辛口コメントで知られる歴史学者のニアール・ファーガソン教授が評するように、本書はまさに「金融危機の要因を政治経済に求めた初めての本」なのだ。
本書は米国建国の時代から始まって、1980年代以降今日に至るまでの金融事象を詳細に記述する中で、一貫して「金融の政治的アクセス」という視座を忘れない。そこに今回の金融危機の主因を読み取る分析の巧みさは抜群である。その新鮮なアプローチが織り成す金融物語は、まさに今日の米国経済が抱え込んだ病巣を見事なまでに抉り抜いている。
原書のタイトルになっている「13 Bankers」とは、2009年3月27日にホワイトハウスに集まった、大手金融機関13行の13人の経営者達のことを指している。当時、危機に直面する13行は政府の支援を必要としていた。だが一方で、政府もその13行の生存を必要としていたのである。
1998年にも、同じように13人の銀行家が当時のサマーズ財務長官のオフィスに集まっていたことがあった。金融規制強化の動きに反対するのが目的である。財務省とFRBを味方に付けた金融界は、その後急速に取引を拡大して増収増益の決算を積み重ねていく。だが2007年以降にそのビジネス・モデルは崩壊し、再び銀行家13人が支援を求めてホワイトハウスを訪問することになった、という訳だ。
13という数字が、キリスト教徒にとってあまり縁起の良い数字でないことは周知の通りである。ただ、それは「不吉なメッセージ」というよりも、金融が政治と結託することによる「不気味なマイナス効果」を示唆するものである。
本書におけるジョンソン教授らの論点を一言で要約するならば「金融寡頭制への危機感」である。少数の大手金融が経済を牛耳る構造に、政府は対抗出来なくなっている。ローリング・ストーン誌のコラムニストであるマット・タイビ氏がゴールドマン・サックスを「人類の顔に張り付いた巨大なコウモリダコ」と評して話題を呼ぶなど、ここ数年米国社会に湧き上がっている「金融叩き」には、そうした構図への批判という側面もある。
だが、金融が権力に接近する構造は最近形成されたものではない、と本書は指摘する。第一章がトマス・ジェファーソンの「金融嫌い」の描写で幕開けとなるのは、その史観に基づくものである。米国における金融権威の誕生は、決して直線的なものではなかった。それは、金融の中央集権を支持する人々と、金融が権力を持つことに反感を覚える人々との、抗争の歴史でもあったのだ。
試行錯誤の連続の上に、中央銀行たるFRB(連邦準備制度)が出来上がる。だがそれは純然たる第三者というよりも、民間銀行の利益代表という色彩の濃い組織であった。そして1980年代以降のFRBと民間銀行の「金融社会」は、財務省を味方につけることによって「ウォール街・財務省複合体」を作り上げることになる。1995年にゴールドマン出身のロバート・ルービン氏が財務長官に就任したのは、複合体創設の総仕上げであった。
さらに1980年代以降、米国の金融機関がどのように「変身」していったのか、本書は規制緩和や金融商品、市場取引、そして選挙献金などに光を当てながら、時代が金融の価値観までも変化させていくプロセスを描写する。そこには「金融史観なしに病巣は見つけられない」という深い洞察がある。
歴史は金融や経済にとって極めて重要な視点である筈なのに、現場の金融ビジネスは、自身の歴史に無頓着であることが多い。自動車の歴史を知らないで自動車作りに励むメーカーは無いだろう。カメラやコンピューターにしても然りである。産業だけでなく音楽や絵画などの文化においても、古代から中世、そして近代へと連なる史的継承を知らずして、現代を理解することは出来ない。
だがこと金融に関していえば、銀行の歴史など知らなくても、或いはオプションの誕生経緯を知らなくても、顧客との取引で簡単に巨額の利益を生むマニュアルが存在する。そこには別に史観など必要が無い。恐らく米国のビジネス・スクールで金融史などを教えるところは少ないだろう。
そうした史観の欠如は、金融危機を引き起こした一要素でもある。17世紀のチューリップ球根のバブルや18世紀の南海泡沫会社のバブルから、現代の不動産担保融資のバブルや住宅バブルまで、「カネ」に関して学習効果があまり効かないのは、金融史を正しく理解してこなかったからではないか。「13 Bankers」たちが政府に泣きついたのも、史観無き近視眼的な経営戦略にのめり込んだ結果だったのではないだろうか。
本書では後半に「大き過ぎて潰せない」問題を採り上げて、金融寡頭制にどう対応すべきか、に熱弁を奮う。所謂「Too Big To Fail」は一種の流行語にもなったが、ただ現在では米国の金融問題は峠を越えたとの見方が大勢で、危機感はやや薄れ始めている。しかしながらこの「大き過ぎて潰せない」問題は、依然として片付いていないばかりか、さらにリスクの度合いを増しているようにも見える。
巨大な銀行を支援することに対して米国社会は完全に嫌悪感を抱いており、今後何か深刻な事態が起きても、公的資金の再投入に対して強い抵抗感が生まれることは間違いない。2010年に成立した金融規制改革法には、税金を使った金融支援は二度と行わないという方針が明記されたが、仮に大手金融に再び危機が発生したときに、米政府にリーマン・ブラザーズのように「見捨てる」覚悟が本当にあるのか、疑問は残る。米国金融システムは、危機当時よりもさらに寡占状態になっているからである。そしてその救済は米国といえども財政的に手に余るものとなるだろう。
米政府の対処法の根底にあるのは「危機を未然に防ぐことが最優先だ」という考え方である。自己資本比率を高め、リスク管理を洗練させ、余計なリスクテイクをしなければ、金融破綻は起こらないという論法である。だが金融には「絶対的な安全性」などない。米国が作り上げた金融理論には「リスク・フリー」といった神話的な無リスク思想が盛り込まれているが、それは虚構に過ぎない。
金融とは、誤解を恐れずに言えば、破綻を繰り返すシステムである。それが歴史の教えるところでもある。政府の金融危機管理とは、どんな銀行でも破綻するリスクがあるという前提に立ってその対応策を準備しておくことであり、こうすればどんな銀行も潰れない、といった希望的観測のような楽観論を撒き散らすことではない。
本書が最終章で述べるように、現在の米国では寡占化によって生まれた6つの大手金融機関がこの「大きくて潰せない」カテゴリーに入る。より肥大化した金融は、政府救済という暗黙の前提のもとで再び違った形でリスクテイクし始める可能性は小さくない。なぜなら、巨大なコスト構造を抱える中で現在のような平凡な収益状況が続けば、高いRoEを求める株主を満足させらず、自らの報酬も正当化できなくなるからである。
そのリスクテイク指向に応えるかのようにFRBは量的緩和を推し進め、内外にバブルの種を撒き始めている。そのマネーは、企業融資ではなく資源市場や新興国不動産市場などに向かうだろう。大手米銀がその収益機会を逃す筈はない。米国はまた同じような道を辿り始めている。政治と結びついて生き延びようとする「大きくて潰せない」金融に、経営不安再燃のリスクは付着したままなのである。
圧巻はやはり第6章と第7章である。特に金融寡頭制のデメリットを様々な観点から的確に解説し、建国の父ジェファーソンの精神に戻る必要がある、と力説する第7章は、読み応えのある終幕だ。
世間では、メガバンク解体・分割無しに健全な経済運営は不可能だ、という考え方には批判も多い。規模こそが安心感・安定感を生むのだ、と主張する人もいる。危機が起きれば安全性を頼って規模の大きな金融機関へと預金が流れるのは事実である。
だが未曾有の危機を生み出したのが当の大規模な金融機関の存在であるとすれば、「規模の利益」の主張は正当性を失う。その考え方こそが、危機再発の土壌であるからだ。世界経済が徐々に回復基調を見せている中で金融危機は解消したかのように見えるが、その地底で蠢くマグマはさらに威力を増そうとしている。本書はその警告とも読めるし、軌道修正への希望とも読める。いずれにしても、世界の金融問題にはまだ決着が付いていないのである。