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◆透明性の判断力

◆ WikiLeaksが示したもの

昨年、世界を揺るがした現象の一つに「WikiLeaks」がある。その暴露の是非を巡って、世界中で議論が巻き起こった。金融市場に直接影響するものは無かったが、外交における様々な機密情報の漏洩は、各国当局者にとって大いなる脅威になっただけでなく、先進国における情報管理が如何に杜撰なものであるかを世界に示すものとなった。それに比べれば、尖閣諸島の映像漏洩など、たいした問題でないようにすら思える。

外交に秘密が存在するのは当然であり、それらをすべて公開しようとするWikiLeaksの主張に簡単に同意することは出来ない。だが、現代の問題は何を秘密にするかという高度な判断を行う主体が、必ずしも英知に長けた人々でないことである。つまり本当の意味での超エリートが判断しているとは思えない、という不信に、今日の問題が集約されているのであり、WikiLeaksはそこを鋭く突いた、という意味で筆者は、部分的にではあるが、その行為を評価している。また秘密が正しく守られていないことを別角度で見れば、秘密にすべきものを公開しているというリスクも存在する、という解釈も成り立つだろう。

WikiLeaksは、Bank of Americaをターゲットにした秘密情報の公開も予定していると公言しており、今年はそうした情報で銀行問題に再びスポットライトが当たる可能性もある。様々なリスクが存在する中で、WikiLeaksは「ワイルド・カード」的な存在になるかもしれない。FOMCは現時点での時限爆弾を、住宅と連邦・地方債務、そして欧州の三つに集約させているが、WikiLeaksによる銀行追撃の威力も無視できない。

だが本稿の目的は、WikiLeaksについて論じることではなく、金融における「透明化」の問題を考えてみることである。外交に不透明部分が必要であるのと同様に、金融にも必ずしも透明化がすべて正しいとは言えないところがあるからだ。

例えば、銀行の頭取が「弊行には預金者全員に払い出せる現金など持っておりません」などといえば、取り付け騒ぎが起きるに決まっている。銀行は、全員が一斉に預金を引き出さないことを前提として経営しているのだから、当たり前である。だが、経営情報の透明化を要求されるがままに「預金の真実」を公表すれば、世間はパニックに陥る。知らせない方が良いこともあるのだ。

同じように日銀が「日銀券には何の担保もありません」などと言えば動揺も起きる。財務省も「日本国債は家計で言えば借金踏み倒しに近い状況です」などとは口が裂けえも言えないだろう。厚生省も自らの口では「年金は破綻している」とは言えまい。お金の仕組みに関していえば、タブーは五万とある。それをいちいち「透明化」しようとすれば、不換紙幣の仕組みを使って急成長してきた現代経済の根幹が揺らぐ。誤解を恐れずに言えば、金融には不透明性が必要なのである。キリスト教が「イエスの復活」をひとまず括弧に入れるようなものである。

だが前述したように、その不透明性の判断に際して「邪な政治的意図」が挿入されるようになると、本来は透明にすべきものを不透明にしようとする力学が働き、経済社会を盲目にさせるというリスクが生じる。WikiLeaksのような媒体が仮に倫理観を持ってそこに焦点を当てるなら、それは一種の啓蒙活動になる可能性もあるだろう。

◆ 透明化は難しい

金融市場の問題を考える際に、「本来は透明化すべきなのに不透明化されている問題」として、米国のGSE(Fannie MaeとFreddie Mac)を挙げることが出来る。住宅金融問題を深刻化させた当事者でもあり、同時に米国住宅市場の守護神でもあるGSEに関しては、住宅市況を何とか早期に改善させたいという気持ちと同時に、財政危機を表面化させたくないという別の政治的意図も働いてきた。

客観的に見れば、後者のウェイトがはるかに大きい。オバマ政権の経済チームはこの問題を出来るだけ先送りさせようとしてきたが、昨年のDodd-Frank法の成立でそうもいかなくなった。先般、三つのオプションを通じて住宅金融の在り方を根本的に改める方針を提示した。

もっとも具体的議論はこれからであり、財政赤字に組み入れるかどうかの議論も素通りしている。ここに至るまでのガイトナー財務長官の逃げ腰は、「透明化・不透明化判断」が信頼できる当局者の手に委ねられていなかった一つの具体例として記憶されるだろう。

その点、「QE2」への痛烈な批判の嵐に巻き込まれたバーナンキ議長は、広報活動の必要性を再認識して、講演・新聞・テレビ・記者会見と様々な機会を利用して、その政策への説明を行っている。透明化への熱意は評価すべきだろう。

だが、透明化しようとして逆に不透明になってしまったのが、12月のCBS「60 Minutes」への出演であった。議長は、FRBの量的緩和がマネー増刷だと批判されていることに対し、「FRB is not printing money」と述べた。だが議長は2008年10月の同じ番組に出演した際、「FRB is printing money」と述べている。つまり「QE1」はMoney Printingで、「QE2」はそうではない、ということだ。

この「QE1」と「QE2」の差異に関しては解釈の余地が有り得ることは「世界潮流」の中で触れておいたが、一般の人がこの二つの番組を連続して聞けば訳がわからないだろう。マネーの中枢を司るトップが、2年前は紙幣を刷っているといい、今では紙幣は刷っていない、というのだから、混乱しないほうがおかしい。もっとも、幸いなことに一般人は2年前に議長が何を言ったのかなど、覚えては居ない。大衆の健忘のおかげかどうかは知らないが、この印刷議論は大問題には至らなかったようだ。

勿論、これは米国など海外金融だけの問題ではない。日本にとっても、日銀や銀行、証券といった金融中枢機能は、金融が果たす役割が見直されるにつれて、どこまで透明化しそれをどう透明化させるか、という課題にもっと真剣に取り組むことを要求されるようになるだろう。

但し透明化を徹底するというのは、メディアが主張するほど容易ではない。マネーに絡む話は特にそうだ。洗いざらい公表することが、社会の安定に繋がるとは言えない。高度な取捨選択の判断力と、洗練された表現力と、論理一貫性などが要求される「透明化」には、強い倫理観に基づいたエリート意識も必要だが、政治の実態を見るまでもなく、残念ながら日本の高等教育はそうした人材を育成することを放棄してしまったように見える。

透明化を認識論として緻密に貫徹しうる人材が居ないところで、立派な透明化を要求しても詮無いことである。WikiLeaksは、日本に欠けている大きな弱点を浮き彫りにしたと言う点でも、評価に値するのかもしれない。

2011年2月25日(第240号)