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◆「リスクテイク・ヘッジ」の境界線
先日、鳥取県の片田舎にある我が母校の後輩ら約20名が、首都圏研修と称して先生に引率されてはるばる上京してきた。東大や高エネルギー加速器研究機構、理化学研究所、国会議事堂などを見学したあとでOBの職場にも立ち寄って話を聞く、という成績上位者らを対象とした二泊三日の行事は、特別扱いを嫌う保護者らの反対にも遭いながらも、既に5年目を迎えている。今年も文系志望の10名に対して、金融や経済の話をすることになった。
毎年思うのだが、高校生に金融の話をすることは容易ではないし、誤解を与えかねないこともある。一部の高校生には、親が銀行取引で苦労するのを見て、「金融」という言葉に生理的嫌悪感を抱いている場合もある。と思えば、数年前に京都のある高校で講義を行った際に、ヘッジファンドの行動原理をどう思うかと聞かれて、驚いたこともある。
今回の講義では、まず経済という社会的側面の意味を説明しながら、金融がどうその経済と関係しているか、を浮力の概念を使って解説してみた。金融機能が発展していなかった中世社会と19世紀以降の近代社会は何が違うか、を「ビーカーの中に入れた木片」という図で説明してみたのである。
金融のない社会では、ビーカーの中の木片は底に沈んだままである。そこに、銀行融資や割賦販売の拡大という「水分」が加わると、木片は浮かび上がる。それが生活水準の向上である。15世紀のイタリアの銀行に始まり、19世紀の英米の銀行に至って、ビーカーの中の水量は着実に増えていった。だがある時点で、水量がビーカーから溢れ出し、木片はどこかへ流れ去ってしまった。はい、それがリーマン・ショックでした、というオチである。
これで高校生諸君がどこまで経済と金融の関係式を理解してくれたか知る由もないが、後日引率された教頭先生から「生徒はともかく、私は勉強になりました」という短い手紙を頂いた。まあ反応がないより有難いが、ウケたかどうか解らぬままに来年もまた同じ話をすべきかどうか、悩ましいところである。
高校生には、話の後半で雑談交じりに話した「リスクテイク」の方に反応があったようだ。受験生には偏差値という頭の痛い数字が付いて回るが、金融ではリスクという標準偏差に死ぬまで付き合わされる。プラスもあるしマイナスもあるのがリスクだが、価格予測は統計上の「死んだ数字」だけで決定されるものではない。プラスへ動くルート、マイナスへ転落するシナリオ、それぞれの解析が必要である。
マイナスの可能性を割り切った上でプラスへの挑戦に価値があると思えば、迷わずリスクテイクを選択した方が後悔しない。そんな話をした。後で上京していた一人の高校生から、迷っていましたがリスクを取って東大受験を決めました、というメールを貰った。OBとしてのアドバイスが裏目に出ぬように、と願うばかりである。
更にリスクには、回避したしたつもりでも逆に思わぬリスクを抱え込むことになっていたり、リスクにチャレンジしたように見えてそれが上手くリスク回避になっていたりする、とう厄介な側面もある。もっとも、この辺は高校生には難しいので省略した。
これは、むしろ金融経営に対する警告の方が適切かもしれない。リスクヘッジしているようで、全くリスクヘッジになっていないどころか、想定外のリスクテイクになっている可能性があるからだ。
◆ リスクヘッジの難しさ
メディアや評論家は、銀行の国債保有を意図的に批判することも少なくないが、民間銀行が国債を買うというのは、ある意味で必然的行為である。日銀担保の適格性からしても、バーゼル委員会での流動性対策にしても、国債保有という行動を支持しているものである。日本だけでなく、どの国の銀行も国債を保有している。問題は、その量が適切かどうか、金利や期間の深刻なミスマッチが起きていないか、ということだ。
だが1990年代以降の日本では、明らかに預金選好と資金需要のバランスが崩れたままであり、仕方なく国債を買うという銀行行動がむしろ業務上一般化されてその経営的な歪みが病的なまでに深刻化している。預金が増える一方で優良な借り手がいない、資金需要が乏しい、というのは決して銀行の言い訳ではなく、日本(否、先進国共通)の経済構造変化を代弁するものである。
これは「偏狭な日本円利用領域」の問題でもあり、簡単に解消されないだろう。国家財政にしか資金需要がないのなら、銀行経由で民間貯蓄が政府に吸い上げられるのは、自然な経済力学の結果である。問題は、銀行がそのエージェント機能を追っていることであろう。銀行は、自分のカネで国債を買っているのではなく、所詮は他人のおカネで国債を買っているに過ぎないのだ。
これは、機関投資家が自分のカネではなく他人のカネで株式運用するのと似ている。エージェント機能だからこそ、資産の本質を問い質すことなく、他社との競争というその一点だけで株式を買うのである。株価上昇が、経済拡大でなく妖しげな金融政策によるものであっても、構わない。他社が儲けているのに自社が出遅れてしまえば、ビジネス自体が壊れてしまう。エージェント・モデルの弱点そこにある。現代の政府は、その弱点を自らのメリットに転換しているのだ。
だが、そのエージェント・モデルが行き過ぎると、リーマン・ショックのような破壊現象を呼ぶことになる。日本国債のエージェント・ビジネスもこれに近いものがある。日本の財政健全化を提言する人の中で、自分のカネで国債を買って国家を支援しようとする人がどれだけいるのか疑問であるが、その一方で国債に不信感を抱いて銀行へ向かう人々の預金を積み上げた銀行は、そのおカネでエージェントとして国債をたっぷりと買い込む。
銀行も、それは一種のリスクヘッジである、というだろう。預金の行き場が無く、健全な借り手も少ない。利回りの高いジャンク債へ投資したり、外貨転換して運用したりするのはリスクが高過ぎる。消去法ではあるが、金利リスクを管理しながら国債を買うしかない。だが、それが取り返しの付かない大変なリスクテイクになっている可能性は否定出来ない。
リスクは容易に「転倒」或いは「倒立」するのである。筆者が邦銀を辞めて米銀に移ったことは、リスクテイクのように見えて、実は不良債権問題からのリスクヘッジとなった。米銀を辞めて独立したのも、リスクテイクのように見えて、サブプライム問題からのリスクヘッジになった。筆者と逆の立場を採った人々は、リスクヘッジしたように見えて、大変なリスクテイクをしていたのである。まあこれは単なる結果論かもしれないが。
リスク判断は難しい。だがリスクヘッジを選好しながら思わぬテイクになっている可能性は、絶えずチェックしておくべきだろう。今回は邦銀の国債保有問題を挙げたが、似たような話は至る所に転がっている。ビジネスにも人生にも、リスクは付き物である。どうやってリスクと上手く付き合えるか、来年は高校生にそういう話をしてみることにしよう。