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◆日本の金融に強さはあるか
◆ 持続性と継続性
本年初に、ある金融界の大先輩から「日本の金融の良さ、或いは強さはどんなものだと考えますか」という難しい質問を頂き、恥ずかしながら、即答出来なかった。どこがダメかという議論は腐るほどなされてきたし、自分もその枠組みで持論を展開してきたが、どこが良いか強いか、という視点で考えたことが最近あまりなかったのである。
数年前に、何かの雑誌に「日本の金融が周回遅れというのは言い過ぎであり、欧米と同じ程度のインフラはある、ただその使い方を知っている経営がいないだけだ」と書いたことがある。それは、過小評価されることの多い日本の金融を多少弁護する気持ちからのものであり、「良さ」を積極的に評価したものではなかった。あらためて「良さ」を考えてみるのも、何かの契機にはなるかもしれない。
その大先輩には、持続性・継続性というのが一つのヒントかもしれません、とやや苦し紛れの回答をした。これは年初のメルマガに「米国経済の爆発力や瞬発力に対抗するのは難しいが、日本経済は持続力で対抗しうる」と書いたものを繰り返したものである。金融にも恐らく、同じことが言えるだろう、と思ったからだ。
スワップやオプション、CDOといった金融技術を考案し、それを実体経済から切り離して猛烈な勢いで成長性と収益性に還元させていった(そして暴発・自壊していった)あの迫力は、とても日本勢が真似できるものではない。だが一方で地道に地味な作業を丁寧に続ける努力は日本が得意とするところであり、一見つまらなそうにも見えるが、金融の本質が潜んでいるのはそこである。
但し、持続性・継続性という持ち味が発揮されるのは商業銀行業務であり、投資銀行にはやはり爆発力や瞬発力が必要とされるだろう。日本で商業銀行が金融のメインに据え置かれているのは、その為である。投資銀行ビジネスは金融プロセスの必然というよりも、得意分野の延長線上に位置するものなのだ。そこに史的唯物論が介在する余地は無い。日本の金融が投資銀行業務で海外勢に勝てなかった理由は、それほど難解なものではない。
従って、もし「日本の金融の良さ、或いは強さ」が持続性と継続性だけならば、英米との金融競争にはかなり不利だということになる。特に今後、アジアでの勝負が日本の経済や金融にとって重要な鍵になることは間違いないところであり、ここでアングロ・サクソン金融に勝てないとなれば、日本の金融はさらに存在感を失うことになるだろう。そもそも論として、日本は金融プライスの設定力や判断力に乏しいところがある。プライシング・レベルを自ら発見しようとする意欲もない。あまり楽しい想像ではないが、アジア市場の覇権を巡っての金融競争は、中国と米国との間で争われることになる可能性は小さくないのである。
日本では、中国経済への脅威論は強いが中国金融機関への評価はそれほど高くない。それは中国内金融市場の未発展、人民元の限界、乏しい海外戦略の実績、といった点から来るものであろうが、それは欧米金融が1980年代の日本経済台頭に伴う邦銀勢の動向を甘く見たのと同じであるかもしれない。あの怒涛のような短絡的勢力拡大は、結果的に一過性に終わったにせよ、欧米金融が肝を潰す要因になったのは事実なのである。
◆ 実体経済が望む金融に
持続性・継続性はあるが爆発力・瞬発力は無い。後者が無ければ、息を吹き返しつつある米国金融や昇竜の勢いの中国金融との戦いには不利である。ではやっぱり負けるしかないか、というのが最近の日本の退廃主義的結論である。最近の反骨精神の無くなった自虐的金融マンを見ていると、残念ながらまあそうかもしれない、とも思うようになった。だが本当にそれで良いのだろうか。本誌は10年前の創刊以来、ずっとそんな精神的敗戦論を拒んできたつもりである。
その殻を破るには、大先輩から質問された「日本の金融の良さ、或いは強さ」をもう一度考え直してみることが必要だ。持続性や継続性は必要条件だが、たぶん十分条件ではないのである。では何があるか。あれこれ考えてみて、その第一候補に挙げられるのは信頼性であろう。
新幹線や自動車などに代表されるように、海外諸国が日本に対して抱く「良いイメージ」は技術への信頼度である。原発事故でその神話も崩れたという人もいるが、あれは一種の人災であって技術レベルの話ではない。金融もまた、信頼性が重要な要素となるのは疑いないところである。
だが、これをどう相手に伝えていくのかは難しい。ゴールドマンやJPモルガンがリーグテーブル片手に顧客に「信頼性」をアピールするのに対して、日本の金融機関は何を材料に対抗出来るだろうか。金融危機を起こしたのは彼等だ、と批判してみても、日本勢に実力が無ければそれまでのことである。やはり金融は、実績がモノをいう。
では「金融技術力」はどうだろうか。金融工学はサブプライム問題以降、破壊者としての烙印を押されてしまった感もあるが、良識有る技術者たちは、その誤解を早く解かねばならない。金融技術は再評価されるべきである。証券化もCDSも無くてはならない存在であり、それらを有効活用しないことには、金融の未来もない。
1990年代の日本には欧米に劣らぬ技術の蓄積があった。最近、先端分野の人々と接点が殆どなくなったので、日本の金融力においてその技術性にまだ競争力が残っているかどうか、正確な判断が出来ない。事業縮小などの傾向を見ていると、ひょっとするとここでもダメかもしれない、とも思ったりする。金融の先端技術は10年もすればキャッチアップ可能である。モタモタしていれば、日本が中国に凌駕される日も来るのではないか。
残念ながら、「日本の金融の良さ、強さ」への質問に対して「これだ」と満足いく回答が見つからない。逆に言えば、金融独特の嫌味のある強さがないことが、良さなのかもしれない。実体経済を支えるという黒子の役割として、金融が飛びぬけた才能を示す必要はないかもしれないからだ。一方で米国や中国の金融経営はそういう生き方を好まないだろうが、それは彼らの勝手である。そう割り切れるかどうか、の問題である。
各国における金融のあり方は、政治経済の価値観の多様化と同様に、多様化せざるを得ない。結局は、その経済がどういう金融を望むか、に帰着せざるを得ないのである。日本の金融は、企業経済のあり方に柔軟に対応できればそれで良い、ということだ。言い換えれば、「実体経済が強くなる為の必要条件」を持っていることが金融の強さであり良さなのである。答えは金融村にあるのではなく、実体経済の中にあるのだ。
質問を頂いた大先輩に今度会うことがあれば、そう答えたい。だが同時に、本誌読者には申し訳無いのだが、現在の日本の金融がその条件を満たす力を持っているかどうか、私には解りません、と付け加えることもやむを得ないという気もしている。特にシステム障害を繰り返す銀行や東電問題に対し社会的使命を忘れたかのような発言を繰り返す経営者を見るにつけ、金融再生に失敗したこの10年こそ「失われた10年」と呼ぶべきではないか、と思っている。