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◆資本主義の起源

◆ 500年に一度の危機

リーマン・ショックが起きた2008年の秋、もう3年以上も前になるが、ある講演でこれは100年に一度の危機ではなく500年に一度の危機かもしれないと話したら、出席されていた日銀OBの方からもう少し詳しく解説して欲しい、と後日酒の席に誘われた。質問の趣旨は、500年とはどういう区切りの歴史観なのか、というものであった。それはとりもなおさず資本主義の起源に関する問題である。

その方は私よりも15歳ほど年上で、京大経済学部のバリバリのマルクス経済学ご出身であった。マルクス主義の経済史観でいえば、資本主義は英国の産業革命を以って始まる、というのが定説である。私が言った500年というのは、どうもその史観にそぐわなかったようだ。こちらの持論は、マルクスではなくウォーラーステインが描写した、16世紀の資本主義起源説である。産業資本ではなく大航海時代の商業資本が資本主義を生んだ、という解釈だ。

もっとも、いつ資本主義が始まったのか、に関しては定説がある訳ではなく、マルクス主義の変形として中世にその起源を求める説もある。あまり厳密な議論に拘る必要もないかもしれないが、ただ今日のように経済システムの究極の姿のように思っていた英米流の市場経済型資本主義が行き詰まり、中国などの国家的資本主義の勢いが増してくると、いったい資本主義がどこに向かっているのかがわからなくなる。となれば、そもそも資本主義がどのように生まれて発展してきたのかを問い詰めたくなるというものだ。

これは、学問的興味ではなく実務的興味である。英米の学者やメディアのように、中国流の経済などいつかダメになるさ、と冷笑するのは簡単だ。また米国のような借金・消費型経済が永続するわけが無い、と蔑むのも難しくはない。問題は、では5-10年後の経済像はどうなっているのか、という疑問に答える力である。その回答はマルクスやスミス、或いはケインズが与えてくれるものではないし、ましてFRBのバーナンキ議長やノーベル賞のクルーグマン教授に聞いても解らないだろう。これは、資本主義の歴史を問い詰めなければ出てきそうにない。

経済学を学んだ人でも、資本主義とは何なのか、正確に答えられる人は少ないかもしれない。以前にも書いたが、歴史的にいえばその対立概念は共産主義ではなく封建制度(それも欧州流のフューダニズム)である。その時、中世ないし近代の欧州でどんな変化が起きたのだろうか。その変化はその時点で資本主義と呼ばれた訳ではない。資本主義は飽くまで事後的なラベルである。

マルクスは生産様式に注目して資本主義という概念を打ち立てた。資本の再生産が生産を通じて行われる社会システムである。だがウォーラーステインは、商業の拡大が資本制社会を構築したと見てその起源を16世紀に置いたのだ。どちらにしても、社会を支配していた契約による主従関係を、自己増殖する資本が打ち破っていったことを分析的に示したものであり、資本主義がどのようにして生まれてきたかという点に、実に鋭い洞察を与えている。

物心付いた頃から資本主義社会にどっぷりつかっていると、資本主義の客観的な意味が解りにくい。だから「資本主義の危機」などと言われてもピンと来ない。共産主義など復活する筈も無い、とたかを括る人も多いだろう。たしかにソ連型の経済がゾンビのように蘇ることは考えられない。だが我々は、市場経済と資本主義を混同している可能性もある。資本主義の世界にいながらにして、市場経済が大きく制限されることは、十分有り得ることなのだ。

◆ 中世の資本主義

エリック・ミランという若いベルギーの経済学者が「資本主義の起源と西洋の勃興(藤原書店)」という本を書いて、マルクス流でもウォーラーステイン流でもない、西洋経済独特の発展メカニズムを解き明かしている。もっとも同氏はウォーラーステインの弟子なので、その批判的解釈を通じて恩師の説の拡張を図っているともいえる。

面白いのは、中世の西洋と中国・インド・北アフリカの政治的差異を示しながら、なぜ欧州にだけ資本主義が芽生えたのかを力説している点である。欧州と日本の資本制起源を解き明かした豊田四郎氏の「都市(ちくま学芸文庫)」にも通じる問題提起であり、一読に値する本である。

書評を書く気はないので、その内容に深く立ち入ることはしないが、この書を読むと既に11-12世紀辺りから世界各地に市場経済が芽生え始め、13世紀には欧州の一部都市国家において資本主義社会が誕生していたことが雰囲気的に理解できる。確かに、コロンブスが西インド諸島に辿り着いたり、バスコ・ダ・ガマが世界一周したりする前に、アジアとビザンチンを結ぶ商人資本を中心として、資本の自己増殖というシステムは欧州に成立していたのだ。

思えば日本も11-13世紀に南宋との間で活発な貿易が行われており、陶磁器や絹織物、宋銭などを輸入していた。宋銭は日本の貨幣経済発展に大きく貢献したことは周知の通りだが、これがなぜ資本主義に繋がらなかったのか、日本の経済学はこれに上手く答えていないように思う。商品交換が活発化し、貨幣が流通するようになれば、資本の自己増殖運動は必然的に高まるのではないのか。

それが起こらなかったのは政治システムが原因だ、とミランは指摘している。西欧にしか資本主義が起こらなかったのは、西欧にしかそれを許容する政治システムが無かったからだ。ただ、それを文化的・宗教的・民族的な側面のみで解釈してはならない。ブルジョアジーが支配し外的に搾取を求める「都市国家システム」が出来上がったのが西洋だ、ということに過ぎない。それが資本主義を育む土壌になった。欧州よりもはるかに豊かであったアジアは、国家がその富を独占するシステムであった。その違いが、資本主義の有無となって現われたのだ。

つまり市場経済の発展は、そのまま資本主義を拡大させるとは限らない。明朝時代の鄭和は、コロンブスの100年前に大航海時代を体験して世界最大規模の交易を達成したが、それは資本の再生産を目的としたものではなく、中国に資本主義をもたらすことは無かったのである。

市場経済と資本主義は同義ではない。欧州の資本主義は、市場経済を政治システムに乗せることによって誕生し、教会や国王そして国民国家と形は変えながらも、その権力と資本が利害を共有する形で搾取を続けながら発展・拡大したのである。金融は見事にその接着剤と増幅回路の役割を果たした。

だが21世紀になってその効力が薄れてきた。市場経済と資本主義というコンビネーションが劣勢に立たされているのである。そして国家経済と資本主義の結びついた中国や中東などの新型資本が世界経済の鍵を握り始めている。それを「500年に一度の危機」と呼んでも決して誇張ではないと思うのだが、さてそれはどんな着地点を迎えるのだろうか。筆者は、残念ながらまだ確固とした答えがないままに、年を越そうとしている。

2011年12月15日(第006号)