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◆新年に寄せて:21世紀のルネッサンス
◆ 乱流は不可避
2011年はなでしこジャパンの活躍のように明るい話題もあったが、大震災や原発事故からオリンパス問題まで暗いニュースの連続で、海外でも米国格下げやユーロ危機、アジア経済失速懸念など重苦しい材料ばかりの1年であった。新たな年の幕開けにあたり、大躍進とはいかないまでも今年こそは沈滞ムードを払拭する一筋の光を見出したいものだ。だが、従来の経済感覚に基づいた「再生」や「復活」といった概念に囚われたままでは、また失望の1年に終わることになりかねない。
2008年以降の世界的経済の乱調が単なる景気循環の一局面ではないことは、昨年を通じて恐らく誰の目にも明らかになっただろう。「100年に一度の危機など嘘だった」と論じた識者が敗北した年でもあった。我々は、やはり資本主義の基本ソフトの一部が崩れていることを認めざるを得ないのである。
積極的な財政出動も大胆な金融緩和も、決定的な経済システムの修復手段にはならなかった。米国が得意とするドル安戦略も同国の経済を浮揚するに至っていない。それは内閣府が言うような「政策手段の限界」ではなく、これまでの経済システムがもはや維持不能になったことを示唆している、と見るべきだ。
元旦号の日経ヴェリタスに書いたように、昨年得た教訓は「財政赤字が一定以上積み上がった状況でのケインズ的処方箋は効果がないこと」、「緊急措置以外に中央銀行の非伝統的手段は効かないこと」、そして「為替相場は市場が決めるという感覚は時代遅れになったこと」など幾つもある。今こそ、古い地図を捨てるべき時なのだ。
今年は米国やフランス、ロシア、中国など各国で政治体制が変わる。日本も変わるかもしれない。その新政権に景気回復の望みを託す気分も強まるだろうが、金融市場はもはやそれほど大きな期待感は抱いていないように見える。むしろ、欧州債務問題から派生するユーロ危機や銀行危機そして実体経済がどんな展開になるのか、身構えているのが現状だ。中国もロシアも不気味な暗さを抱えている。出来る限り傷の浅い「秩序だった混乱収束プロセス」を切に願っている、というのが市場の本音だろう。
昨年11月末に見せたように、世界の中央銀行は協調的な流動性対策を講じることが出来る。だがそれは飽くまで「流動性危機」への対応策であって「デフォルト危機」への処方箋ではない。2012年には幾つかの国や銀行のデフォルトは覚悟せざるを得ず、資本市場も何度か乱流に巻き込まれるだろう。アジアなど新興国への期待にも冷水が浴びせ掛けられるかもしれない。
◆ 産みの苦しみ
だが、そういう状況がすべてマイナス材料だとは限らない。ある意味で、現在の混迷は新しい時代に向けた「産みの苦しみ」なのである。閉塞感の強かった中世欧州の暗黒期とは、実は資本主義の萌芽が芽生えた極めて興味深い時代でもあったのだ。
悪材料が重なって世界経済が終末を迎えるかのような論調が増える中で、いま新しい経済への胎動が生まれ始めているのかもしれない。数百年の歴史を耐え抜いてきた資本主義は、恐らくそれほど脆弱なシステムではない。壊れたのは、金融という一部のソフトだけなのである。
GDPなど従来の物差しで測る経済成長は確かに行き詰っている。内外の環境を見る限り当面の低成長継続は避けられないだろうが、逆に言えばその低成長を前提として何を得るかを考えねばならない時代になった、ということだろう。換言すれば、「国益」という漠然としたマクロな観点からの脱却である。
やや乱暴に言えば、明治維新から高度成長期そしてバブル期に至るまで、日本には「国益=個人の利益」という構造が定着していた。つまり国家の繁栄が個人の生活水準を上げるという方程式に沿って、経済を眺めていたのである。そして経済に逆風が吹けば、財政政策や金融政策の出動でシステムを守って貰う、という意識が定着していった。いまではその政策効果も期待できなくなり、信頼構造が崩れる中で個々人に閉塞感が広がっている。
だが、資本主義とはそもそも個人の利益への動機が作り上げてきた経済体制である。それは、中世以来、ミクロな経済変動を上手く捉えた人々の勝利の歴史であった。社会は絶えず変動しており、需要構造も変化する。今日の日本社会においても、食文化から音楽、ファッションに至るまで需要は複雑に細分化されており、人口のかなりの部分を占める高齢者の趣向も千差万別だ。
そのミクロな変化を見逃さない人々が生き残るのが資本主義なのである。日本は資本主義を出来上がった国家モデルとして輸入した為に、その勝者を生み出す原理を正確に理解してこなかったのではないか。確かに表面上は国益と個人の利益が併存しているように見えるが、西欧の資本主義は、逆に国家が個人の利益モデルに乗り掛る形で生まれたものなのだ。
投資の世界も同じだろう。運用とは、社会構造の変化を上手く嗅ぎ分けるセンスが必要とされるビジネスである。それが本来のリスクテイクなのだ。格付け会社の記号で投資選択したり、証券会社の推奨銘柄をピックアップしたりするのが運用ではない。
◆ ルネッサンス
失われた10年、或いは20年と呼ばれた昨年までの期間は、いわば旧来型経済の再生を願うノスタルジー時代であった。この単純な延長線上には「失われた30年」への暗い道が口を開けて待っている。消費税、財政赤字、超円高、貿易赤字、雇用難、年金不安そして政治不信など逆風の要素は数えれば切がない。
だが、現代とは危機を回避するのではなく危機に備えて暮らすしか選択肢がない社会である、と割り切ることも必要だろう。いま、我々に必要なのは「新経済時代を目指すルネッサンス」である。14世紀以降のルネッサンスも、不安や恐怖を一掃した時代ではない。それはむしろ、暗闇の中で手探りしながら生まれた新感覚なのであった。
各国が政策の手詰まりと財政の悪化の中で近隣窮乏化策を取り始めることは不可避だろう。グローバリゼーションは確実に逆回転を始めている。だが創意工夫の積み重ねが次世代を作り出すという究極の真実は変わらない。アンシャンレジームの経済感覚から如何に抜け出すか、今年はその勝負の年である。