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◆マイナス金利への展望

昨年11月のECB理事会後の記者会見でドラギ総裁が準備預金に対するマイナス金利の議論についてやや否定的ながら言及し、クレディ・スイスが金融法人の一手額以上の預金残高にマイナス金利を適用すると発表した。その後、この問題はいったん市場から忘れ去られていったが、先般ドラギ総裁が再び預金ファシリティのマイナス金利に言及したことで、ユーロ圏におけるマイナス金利導入に現実感が蘇っている。

日本や米国ではあまり注目されていないが、引き続き興味深いテーマとして、備忘録的に史実と個人的思考とを整理しておきたい。

既にどこかで書いたが、マイナス金利は1970年代のスイスによる為替管理の遺物である。それが21世紀に蘇ったのは、2008年のリーマンショック直後の米国短期債市場であった。だがこれはパニックが誘った一時的現象であった。

市場にマイナス金利が定着し始めたのは、2012年1月のドイツ国債である。同流通市場では時々マイナス金利が発生することはあったが、市場が驚いたのは6か月もの落札金利がマイナス0.0122%となったことである。これも一時的現象かとも思われたが、そうではなかった。マイナス金利は1年債、そして2年債へと波及し、すっかりマイナス金利は同国市場に定着してしまった。

安全資産を求めて彷徨うマネーは、オランダ、フィンランド、フランス、オーストリア、デンマーク、スイスの短期債利回りもマイナスに誘導していく。デフレ懸念やユーロ崩壊懸念、そして為替介入で大量のユーロ資金を保有することになったスイス中銀の国債購入もその背景にあったと見られている。その影響で、ユーロ建てMMFの中には運用難で新規設定を中止する動きも相次いだ。

但しこれはユーロ崩壊リスクを胚胎する欧州に特有の動きであり、日本や米国の国債市場にまで波及する可能性は乏しい。実質金利で見れば米国は20年債まで既にマイナス金利となっているが、名目で見ることの多い資本市場では、それほど話題にはなっていない。

一方で、マイナス金利には中銀による政策的なマイナス金利としての側面もある。これは国債市場とは別の観点で捉えておく必要があろう。前述のように、1970年代にはスイスフラン高対策としてスイス中銀が非居住者預金へのマイナス金利を適用している。現在では、主要国はIMF8条国として為替管理を行うことは禁じられており、同様の手法は採れなくなっている。

だが国内政策としてのマイナス金利は禁止されている訳ではない。2009年7月にスウェーデン中銀は銀行の超過準備に対してマイナス0.25%という金利を適用した。これは政策金利と準備預金金利との自動的連動によるものであり、そもそも同国では銀行の超過準備がほぼゼロだったので、殆ど影響は出なかった。

だが2012年7月のデンマーク中銀のマイナス金利は、銀行に実損が発生する政策となった。これも利下げと連動して中銀預金金利がマイナス0.2%になったものだが、銀行の超過準備は約2,000億クローネ(約2.8兆円)あったので、そのままであれば銀行の損失は年間ベースで約56億円という計算になる。

デンマーク中銀もいきなりこうした政策導入を行った訳ではなく、事前に民間銀行と協議した末に公表したと言われている。銀行は、貸出増、貸出金利引き上げ、顧客預金へのマイナス金利といった処方箋を考えざるを得なくなっている。

問題は、こうしたマイナス金利が日米英やユーロ圏など経済規模の大きな国や地域で可能かどうか、という点だ。ECBの理事会で議論されたのも、その利点と欠点の整理だろう。日米英が景気対策として量的緩和を優先しているのに対し、ユーロ圏はその効果を疑問視しており、またドイツが国債買い入れには猛反対しているので、マイナス金利を追加緩和の中に採り入れる可能性はゼロではあるまい。昨年のドラギ総裁のコメントに先立って、クーン・ベルギー中銀総裁は既にマイナス金利が選択肢の一つであることを指摘している。

ではマイナス金利という劇薬のインパクトはどのように想定しておけば良いのだろうか。その影響は、銀行と預金者そして企業や市場といった切り口で考えておかねばなるまい。異次元の緩和策を量的緩和の手法で使い果たした日銀にもはやマイナス金利という発想は無いかもしれないが、一応思考実験として記録しておくことにしよう。

まず銀行は確実に損失を被る為、その対応策が必要になる。デンマークの銀行と同様に、貸出増、貸出金利引き上げ、預金口座への手数料・マイナス金利適用、債券運用増といった処方が必要になる。だがいずれ預金が減少に転じる可能性もあり、銀行は別の対応を検討せざるを得なくなるだろう。

市場には、マイナス金利でも邦銀は国債を買い増すだけ、といった指摘があるが、自己資本の900%以上も国債を抱える邦銀が、ほとんどリターンの無い国債をこれ以上残高を増やすのは殆ど自殺行為であろう。むしろ、いつか見たような不動産や株へのリスク・テイクの再現が起きる可能性の方が高いのではないか。

預金者の立場から見れば、高齢者に拠るタンス預金が増える可能性もあるが、防衛的な投資への関心が高まり、社債やREITなどの証券市場や不動産や金などの現物市場へ資金が向かうことは十分に予想される。海外投資への関心も高まるだろう。実体を無視した国内株式への投機的な動きも始まるかもしれない。

一方で、資本市場ではMMFなどの短期商品は機能不全に陥る。国債の需給もやや崩れて長期金利は多少跳ね上がるかもしれない。一方で借入環境が更に好転することで、ファンドなどはレバレッジ拡大へと向かうことが想定されよう。貯蓄者から債務者への富の転移が加速する。企業にも借りるが勝ちというムードが強まり、レバレッジ時代へと戻るかもしれない。だがその資金使途には限界があるので、個人と同様にリスク資産購入へと走ることも予想される。

つまりマイナス金利は、バブル再来の要素を胚胎するものだ。それは信用通貨制度の限界をも示唆しているように思える。1971年以降の「通貨変貌」による金融政策の自由度の解放がおカネの性質を歪めた結果、逆にまともな政策的処方箋が描けなくなってしまった、という悲しい結末なのかもしれない。

人々は金融政策の限界を語り続けているが、筆者にはむしろ信用通貨制度の限界のようにも思える。思考実験としてマイナス金利を展望するにあたり、劇薬としての奇跡的な結果を期待しながらも、バブルと恐慌を繰り返す悪循環から一歩も抜け出せないという事実を再確認するだけのことになるのではないか、という不安感は拭いきれない。そしてそれは、徒に量的緩和を拡大する行動と、それほど違いはないのかもしれない。

2013年5月16日(第023号)