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◆最終号における雑感

2001年の4月に弊社を立ち上げた際、当時の同僚に「何かクレジット市場を改革する為のメッセージ性の強い小冊子を作ろう」と持ち掛けて、本誌の原型である「クレジットリサーチ・アンド・プライシング」という隔週のニューズレターが出来上がった。6月に販売開始した際に、予想以上の金融関係の企業から購読のお申し込みを頂き、問題意識を共有する仲間の多さに勇気付けられたことを思い出す。

あれから12年を経て、日本市場が大きく変貌したのは事実だが、それ以上に大きな変動に直面した世界的資本市場の変遷を語らずにはいられない。リーマン・ショックがその最たるものであるが、それ以降の公的市場介入もまた、冒頭の原稿で示したように、従来の資本市場の姿を一掃するほどの迫力を見せている。資本市場が今後数年間で金融危機以前の姿に戻ると考えるのは、あまりにナイーブな感覚であろう。

もう最後なので有り体に言わせて頂ければ、筆者はバーナンキFRBや黒田日銀の運営方法には大きな違和感を抱いている。日銀が2001年に開始した量的緩和、FRBが2008年に出動した所謂QE1は、ともに非常対応措置として評価するものの、FRBのQE2そしてQE3、日銀の「質的量的緩和」についてはもはや何をか況や、という気分である。

量的緩和がインフレを招くとか効果が期待できないといった要因よりも、それが市場メカニズムを否定する考えを胚胎し、かつ市場機能の毀損を金融当局者が何とも思わないという一種のエゴとも言うべき感覚が、市場育ちの筆者にとっては生理的に受け容れられないのである。経済対策としてやむを得ないという人もいるが、現況の経済は市場を壊してまで政策を求めるほどの悲惨な状態だ、とでも言うのだろうか。

もっとも、こうした量的緩和への方向性は、1971年のニクソン・ショックの際に密かに埋め込まれたDNAの為せる業であったか、という気がしないでもない。市場が破壊されるのは、ある意味で時代の宿命であったのかもしれない。そんな感覚は否定できないが、やはり嫌なものは嫌である。

4月に黒田日銀が始動して間もなく、国債市場が機能不全に陥りかけたことがあった。その後は現場における必死の事態収拾作業が奏功して事なきを得たように思えたが、5月に入って再び暗雲が市場を覆った。まさに市場感覚の無い頭でっかちの理論家や、市場の存在すら意識にない政治家らによって、市場機能が壊されるリスクを眼前にしたような思いである。

その時、ふと思い出したのが、筆者が1980年代に香港市場でユーロ円債のマーケット・メイクを細々と行っていた時代のことであった。非居住者のユーロ円起債は、その当時世銀やアジア開銀、米州開銀など国際機関の発行しか許されておらず、こうした債券のセカンダリー・マーケットを作ることで、引受案件への参加のアピールを行っていたのである。

流動性の乏しい債券市場でビッド・オファーを常時提示するのはそれほど容易ではないが、筆者はその前のロンドン市場勤務でユーロ債売買のノウハウは掴んでいたので、アジア市場で唯一のユーロ円債ディーラーとして「Two-way Price」を出すことが出来た。今から考えるに、あれほどエキサイティングな仕事は無かったかもしれない。

そんな折に、日本当局は円の国際化の一環として非居住者である海外事業会社にもユーロ円債の起債を認めることになった。筆者が勤務していた銀行の幹部は、ここぞとばかりに引受参加に意欲を見せて、香港に拠点を置く欧米企業の財務担当者を訪問し、ユーロ債の主幹事に海外証券子会社の起用をお願いしたい、と営業を始めたのだ。

当時はまだ銀行と証券子会社の間のチャイニーズ・ウォールのルールは厳格で無かったので、東京から来た銀行本部の幹部と証券子会社のプライマリー担当、そしてセカンダリー担当の筆者が同行して各社にプレゼンして回ろう、という計画が立てられた。

当然ながら、欧米企業の財務担当はプライシングの話をする。筆者がセカンダリーの情報をもとに、クレジットのリスク・プレミアムを乗せた話をする。となれば、当然ながら国際機関よりも高いコストになる。一番手のある米系化学企業を訪問した際、東京から来た幹部は私の話を途中で遮って、プライシングはあらためて電話する、と言い始めた。

その帰り道で、筆者は厳しく怒鳴りつけられた。案件を取りに行く際に、高いコストの説明をする馬鹿が何処にいる、というのである。その幹部はシンジケート・ローン担当であり、債券市場はご存じない。起債案件ではまずセカンダリー市場の説明から始めるのが当然だと筆者が反論すると、若造の意見など聞きたくもない、明日からお前は来なくていい、セカンダリー市場など糞くらえだ、と同氏は言い放ってホテルに消えた。

その悲しい思い出は、暫く筆者の脳裏から遠ざかっていたが、その光景が4月そして5月の動揺する国債市場を目の前にして突如として舞い戻ってきた。何だか、日銀に「国債市場の声など聞きたくもない、セカンダリー市場などどうでもいい」と言われたような気分になったからである。これは「対話の終焉」を予感させるものだ。

まあそれは言い過ぎかもしれない。流石に日銀も市場を困らせるとどうなるかは少し解ったようなので、最悪の状況にはならないだろう、と願いたい。だが70%の国債を買うという「公約」を破ることはいまさら無理な話であり、市場を支配下に置こうとする方向性に変わりはない。だが果たしてそれが、黒田日銀の目的とする効果を生むのかどうか、判然としない。どんな副作用が出るのか、同総裁の口から何も出てこないのはむしろ不自然ですらある。

因みに、筆者が苦労してセカンダリー市場を育成したユーロ円債市場での起債案件は、一つも取れなかった。後でプライマリー担当者に聞いたところ、ある企業財務担当者から「ローンのようなプレゼンでは幹事選考の対象にならない」と言われたらしい。当たり前の話ではあったが、市場を軽視することのツケは重いことを、かの幹部が学習されたかどうかは定かではない。

さて筆者の悲惨な思い出話はこれくらいにして、今後の資本市場について最後に一言書いておこう。客観的に見て、おじなべて主要国の中銀は対話能力を失い、市場もまた判断能力を低下させている。その中での市場不安定化は必然であろう。但し、それが信用通貨の持って生まれた本来の性格であったとするならば、その不安定性は所与のものとして受け容れざるを得まい。日本国債の流動性急低下に見られるような現象が、市場のあちこちで起きるかもしれない。

それは、有価証券投資と設備投資の両面において「長期的な自信が持てない状況」が長期間続くことを意味する。弥縫策のように繰り出される日本の成長戦略に対する市場評価も、下半期に向けた世界経済の低迷で帳消しになる可能性が無いとは言えない。「中銀依存から中銀不安へ」と展開していく過程で、楽観的なトーンでこのコラムを閉じることが出来なくなったのは、まことに残念である。

もっとも、市場には予想の外れは付き物だ。筆者もたびたび相場の読みを外してきて悔しい思いをしてきたが、このややネガティブな見通しが外れることはむしろ喜ぶべきことだ、と言い聞かせながらこの辺で筆を止めることにしたい。

2013年6月25日(第024号)